相談室のドアが閉まる音は、相変わらず静かだった。授業のチャイムも、廊下の声も、ここまでは届かない。その静けさの中で、相談者は椅子に腰を下ろしたまま、すぐに話し出さなかった。
視線は机の木目をなぞり、指先で何かを数えるように動かしている。沈黙は長いが、硬くはない。言葉が出るまでの時間、遥は待つ。
「周りが、すごく頑張って見える」
それは、切り出しというより、こぼれ落ちた感想だった。
「テスト、部活、将来の話。ちゃんとやってる感じがする。それに比べて、自分は……何をしてるんだろうってなる」
相談者は、自分に向けた問いをそのまま空中に置く。遥は拾い上げず、そこに残す。
「別に、サボってるわけじゃない。課題も出してるし、遅刻もしてない。でも、“頑張ってる”って言われるほどでもない。だから、何者でもない感じがする」
声は落ち着いているが、言葉の端に疲れが滲んでいた。
「頑張ってない自分を、説明できない。“怠けてる”って言うほどでもないし、“充電中”って言うほど余裕もない。中途半端で、名前がない」
遥は、初めて少しだけ口を開く。
「名前がない状態は、不安になる」
相談者は小さくうなずく。
「評価されるときって、だいたい名前が付く。“努力家”とか、“真面目”とか。何でもいいから分類されたい。でも、今の自分は、どこにも当てはまらない」
押し黙る。相談者自身が、その空白を嫌っているのが伝わる。
遥は、急がない。
「頑張りって、外から見えやすい形だけじゃない」
それは断定ではなく、確認に近い声だった。
「人と同じ速度で走れないとき、止まらないようにしてるだけでも、消耗はする」
相談者は、少し眉をひそめる。
「でも、それって、評価されない」
「評価されないものは、存在しないわけじゃない」
遥は続ける。
「名前が付いてないだけで、消えてはない。言葉にしてない感覚ほど、体力を使うこともある」
相談者は、息を吸って、吐いた。
「名前が欲しいんです。ちゃんとしたやつ」
「今は、仮でいい」
遥の返事は短い。
「“何者でもない途中”。それくらいでいい」
一瞬、相談者は笑いそうになって、やめた。
「途中って言葉、ずるい」
「終わってないって意味だから」
相談者は、背もたれに少し体重を預ける。
「……終わってないなら、まだ焦らなくていい?」
「焦ってもいい。でも、それが“ダメな証拠”にはならない」
沈黙が戻る。だが、さっきとは違い、居場所を確かめるような間だった。
「名前が付くまで、ここでは曖昧なままでいられる」
遥は淡々と言う。
「外で使えない感覚を、置いていく場所だから」
相談者は立ち上がる前、もう一度だけ机を見た。
「曖昧でも、ここに来ていいんですね」
「来た時点で、動いてる」
それ以上の言葉はなかったが、相談者の歩き方は、少しだけ軽かった。急いでもいないし、誇ってもいない。ただ、“途中”であることを、否定せずにいられる速度だった。
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