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放課後の校舎は、昼間よりも音が少ない。窓の外で運動部の掛け声がかすかに反響しているのに、相談室の中までは届かない。ドアをノックする音がして、少し間を置いてから、相談者が入ってきた。
制服の袖口がわずかに擦り切れている。椅子に腰かけても、背中はすぐには背もたれに触れなかった。
「……何から話せばいいか、分からなくて」
相談者はそう言ったきり、視線を床に落とした。遥は頷きも相槌も急がない。机の上に置かれた紙は白いまま、ペンにも触れない。
沈黙は長くなったが、重くはならなかった。逃げ場のない静けさではなく、言葉が追い立てられない時間だった。
「苦しいって思うんです。でも……理由が、ない気がして」
相談者の声は小さかったが、迷っている様子ははっきりしていた。
「殴られてるわけでもないし、無視されてるってほどじゃない。ちゃんと学校にも来てて、成績も悪くない。だから……自分で自分を納得させられないんです」
遥は椅子の脚をほんの少し引いた。目線の高さを合わせるためでも、距離を詰めるためでもない。余計な意味を持たせない動きだった。
「理由がないまま苦しい、ってことはある」
それだけ言って、続きを足さなかった。
相談者は一瞬、顔を上げたが、すぐにまた視線を落とした。
「甘えてるって思われますよね。だから、誰にも言えなくて」
「言えなかった事情があるなら、それは事情だ」
遥の声には評価がなかった。正しいとも、間違っているとも言わない。ただ事実として置かれた言葉だった。
相談者は指先を握りしめた。
「誰かに頼れば楽になるって、頭では分かってるんです。でも……迷惑になるのが怖くて。負担になったら終わりだって思ってしまう」
その「終わり」は、関係の終わりなのか、自分自身の居場所なのか、相談者自身にも判別がついていないようだった。
「頼れなかった時間が長いと、怖さは簡単には消えない」
遥はそう言ったあと、間を置いた。
「怖いまま生きる人もいる」
それは肯定でも慰めでもなかった。現実の確認に近い。
相談者は唇を噛んだ。
「……何もないんです。特別な努力も、夢も、誇れるものも。だから余計に、ここにいていい気がしなくて」
遥は初めて、机の上の紙に視線を落とした。書かないために置いてある紙だ。
「“何もない”って感覚は、苦しい」
短い言葉だったが、相談者の肩がわずかに揺れた。
「空白は、痛みをはっきり映す」
その先は言わなかった。自分の話を挟めば、相談者の言葉が引き戻されないことを知っていた。
しばらくして、相談者が小さく息を吸った。
「じゃあ……どうしたらいいんでしょう」
遥はすぐに答えなかった。答えを用意していない、というより、用意すること自体がこの場に合わないと分かっていた。
「どうにもならない日もある」
それは冷たくも突き放してもいない。ただの事実だった。
「その日に、“苦しいままでも生きていた”ってことだけが残る。価値があるかどうかは、今決めなくていい」
相談者は目を伏せたまま、何度か瞬きをした。
「……それでも、いいですか」
遥は静かに見ていた。逃げ場を塞がない目だった。
「苦しさに理由がなくても、来たのは事実だ」
それだけで、この時間は成立している。遥はそういう場所として、ここに座っていた。
相談者は深く息を吐いた。立ち上がるとき、少しだけ背中を丸めたままだったが、来たときほど強ばってはいなかった。
ドアが閉まる音がして、また校舎の静けさが戻る。
遥は紙を裏返し、そのまま何も書かずに机の引き出しにしまった。救いを残さない代わりに、切り捨てもしない。今日も、それだけでこの場所を閉じた。