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夜の街は、静まり返っていた。窓の外を走る車の音が、遠くで低く響く。
机の上のノートは開かれたまま、何も書けずに時間だけが過ぎていく。
日下部は両手で顔を覆い、呼吸を乱した。
――殴れなかった。
あんな言葉を吐かれても、何一つできなかった。
拳の中には、まだ颯馬の顔が残っていた。
あの冷たい瞳、挑発の笑み、そして「壊してやる」という低い声。
何も知らないはずの中学生が、まるですべてを掌握しているような態度で立っていた。
机に置いた拳が震える。
爪が食い込んで、掌が痛い。
だけど、それすら“足りない”と思った。
「……守るって、なんなんだよ」
喉の奥で言葉が転がる。
遥を救いたい。そのはずだった。
けれど、助けようとすればするほど、あいつは怯えて、離れていった。
まるで、助けようとする手そのものが“加害”であるかのように。
日下部は目を閉じる。
頭の奥で、颯馬の声がよみがえる。
――“殴れよ。そうすりゃ、あいつまた泣くぞ”
――“優しい奴って、見ててムカつくんだよな”
心臓の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛い。
否定したいのに、反論の言葉が出てこなかった。
“優しさ”なんて言葉で、何かを守れるはずがない。
現実は、そんなものを簡単に踏みにじる。
机の端に置かれた携帯が震える。
画面に表示された名前は、遥。
だが、指は動かなかった。
出たい。
けれど、出た瞬間、何を言えばいいのか分からない。
「大丈夫か」と聞いて、もし“うん”と答えられたら、何を信じればいい?
“助けて”と聞けなかったら、どうすればいい?
通話ボタンを押せず、画面が暗くなる。
暗闇の中で、自分の呼吸だけが響いた。
「……俺が弱いから、だよな」
言葉が、吐息に混じってこぼれる。
颯馬のあの笑いが、耳の奥で焼き付いたまま消えない。
“お前の目の前で、壊してやる”
その言葉が、まるで呪いのように絡みつく。
窓の外を見やる。
夜の風が街灯を揺らし、光が波のように震えていた。
その揺れを見つめながら、日下部は拳を強く握る。
――何か、しなきゃいけない。
でも、何をしても“間違い”になる気がした。
自分の優しさは、ただの自己満足だったのかもしれない。
助けたいという気持ちは、あいつを苦しめるだけだったのかもしれない。
唇を噛む。
鉄の味がした。
その痛みすら、現実を確かめるための唯一の手段のように思えた。
「……ごめん、遥」
誰に聞かせるでもない声。
そのまま頭を垂れ、机に額を押しつける。
闇が深まっていく。
世界のどこかで、また颯馬の笑い声が響いた気がした。