テラーノベル
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遥は壁に手をつきながら、ようやく校舎の中へ戻った。
濡れた制服が肌に張りついている。
髪から水が落ちるたび、床に小さな跡が残った。
廊下には何人かの生徒がいた。
遥の姿を見ても、足を止める人はいない。
一人がちらりと見て、隣にいた友達へ小さく笑った。
「まだ戻ってくるんだ」
聞こえている。
けれど、遥は何も返さなかった。
教室の前まで来る。
扉を開けた瞬間、何人かの視線が一斉に向いた。
「うわ」
「何それ」
「水浸しじゃん」
笑い声が起きる。
遥は自分の席へ向かった。
「おい」
呼ばれても振り返らない。
「無視?」
椅子を引こうとしたところで、誰かが足を掛けた。
遥の身体が止まる。
「……座りたいんだけど」
「だったら言えよ」
「言ってる」
「聞こえねぇ」
周りが笑う。
遥はもう一度、口を開こうとした。
けれど、声が出なかった。
助けてほしい。
その一言が喉まで上がってくる。
でも、言えない。
助けを求めたところで、誰かが来てくれるとは限らない。
もし来てくれなかったら。
もし笑われたら。
もし「そんなことで?」と言われたら。
そのほうが怖かった。
だから最初から、何も言わない。
何も期待しなければ、失望もしない。
それが遥にとっては、いつの間にか当たり前になっていた。
「何ぼーっとしてんの?」
机を軽く叩かれる。
「濡れたまま授業受けんの?」
「……うん」
「先生に言えば?」
その言葉に、遥の肩がわずかに揺れた。
教壇を見る。
教師は黒板に向かって授業の準備をしている。
こちらを見ない。
見ても、きっと何も言わない。
実際、昨日だってそうだった。
遥は視線を落とした。
「言わないの?」
「……いい」
「なんで?」
「別に」
「またそれ」
笑われる。
「ほんと何考えてんのか分かんねぇ」
遥は濡れた袖を握った。
言えるわけがない。
裏庭で何をされたのか。
誰にされたのか。
助けてほしかったことも。
怖かったことも。
言ったところで、今度はそれが理由になって、また何かをされるかもしれない。
それなら黙っていたほうがいい。
そうやって、何度も飲み込んできた。
「ほら、授業始まるぞ」
誰かが言う。
遥はようやく椅子に座った。
濡れた身体が冷えていく。
隣から、笑いを含んだ声が聞こえた。
「次はちゃんと仕事しろよ」
遥は小さく頷いた。
「……うん」
それだけ。
誰にも助けを求めない。
誰にも何があったのか話さない。
ただ、何もなかったように授業を受ける。
そのほうが、この教室では生きやすかった。
コメント
1件
うわ……読んでてすごく苦しくなった😢 遥が「助けてほしい」って思っても声にできないの、あの「言ったらもっと酷くなるかもしれない」っていう恐怖がリアルで。濡れた制服のまま平然と座るしかない日常、やりきれないよ。でも、そういう静かな諦めをちゃんと描けるの、ruruhaさんすごい。この重さ、ちゃんと受け止めたよ🤍