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家も、学校も、遥にとっては同じだった。違うのは、逃げ場があるかどうか――それだけ。
家では、空気を読むのをやめた瞬間に壊れる。
学校では、空気を読んでいても壊される。
日下部は、それを「知っている側」だった。
ずっと。
助けたこともある。
見て見ぬふりをしたこともある。
庇った翌週には、距離を置いたこともある。
その積み重ねの先に、今がある。
――屋上の一件から、数日後。
昼休み。
人の少ない廊下の端で、遥は壁に背中を預けていた。
座ってはいない。
座ると、戻れなくなる気がして。
日下部が近づくと、遥は一瞬だけ肩を強張らせた。
すぐに、何事もなかったように戻す。
「……ここ、寒くないか」
日下部の声は、意識して柔らかい。
遥は首を振る。
「平気」
即答。
早すぎる。
日下部はそれ以上踏み込まない。
それが、昔からの癖だった。
「今日、家……」
言いかけて、止める。
遥の目が、わずかに揺れたのを見たから。
「……いや。無理ならいい」
「無理じゃない」
遥は言う。
でも、視線は合わない。
「別に。いつも通りだから」
“いつも通り”。
それが地獄だと、日下部は知っている。
知っていて、
その言葉を止めなかった過去も、山ほどある。
沈黙が落ちる。
遥が、ふと聞く。
「……あのさ」
「ん?」
「来なかったら、どうしてたと思う?」
日下部は一瞬、言葉を失う。
冗談でも、確認でもない声だった。
「……どうって」
「もしさ。あの日」
遥は言葉を切る。
続きを言わない。
でも、続きを前提にしている。
日下部は答えられない。
「……分からない」
それが精一杯だった。
遥は、少しだけ笑う。
笑った、というより、口角を動かしただけ。
「そっか」
軽い返事。
でも、その直後。
「じゃあ……今は、いる?」
確認するみたいな声。
日下部は、反射的に頷く。
「いる」
即答だった。
その瞬間、遥の肩から力が抜ける。
目に見えるほど。
日下部は、その変化に気づいてしまう。
――ああ。
日下部は、そうは言葉にしなかった。
ただ、さっきの一瞬――
自分が「いる」と答えた途端に、
遥の身体から抜けた力が、やけに生々しく残っている。
(……今の、何だ)
助けた、とは違う。
守った、という手応えもない。
むしろ、
“ここに居ていい理由”を、
自分が一つ与えてしまったような感覚。
遥は感謝しない。
縋りもしない。
それでも、確認する。
来なかったらどうしたか。
今はいるのか。
それは信頼じゃない。
期待とも違う。
――必要条件の確認。
日下部は、はっきりそう思った。
遥の中では、
人は「信じる」ものじゃない。
“消えないかどうか”を、都度確かめる存在だ。
そして今、
その対象に、自分が入ってしまった。
(……良かったのか)
問いは浮かぶが、
答えを出す資格が、自分にあるとは思えない。
見なかった。
止めなかった。
正しい距離だと思って、離れた。
その積み重ねの上に、
今の「いる」が乗っている。
遥は気づいていない。
日下部も、まだ言語化できていない。
ただ一つ分かるのは――
この関係は、もう元には戻らない、ということだけだった。
そう理解した瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
遥は何も言わない。
感謝もしない。
責めもしない。
ただ、日下部がそこにいるかどうかを、
何度も無意識に確かめている。
それが、
支えであり、
同時に、拒絶でもあることを。
日下部はまだ言葉にできない。
でも、はっきり分かってしまった。
自分はもう、
「見ているだけの人間」には戻れない。
そして――
助けたことで、
遥の人生に、さらに深く足を踏み入れてしまった。
その重さを、
この時はまだ、引き受けきれていなかった。