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それから数か月後――
沙夜は臨月を迎えていた。
二週間後には無痛分娩の予定が組まれている。
それでも結局、司の浮気疑惑について沙夜は何ひとつ行動できずにいた。
父のこと、両家のこと、会社のこと。そして何よりこれから生まれてくる子どものことを思えば、軽々しく動くことなどできなかった。
司との結婚生活は相変わらずよそよそしいままだった。
無理もない――もし本当に心を寄せる女性がいるのなら、身重の妻に興味を示す必要などないのだろう。
梨花から写真を見せられて以来、沙夜は司の様子を注意深く観察するようになった。
夜遅く帰宅したときの態度、シャワー中にスーツのポケットやバッグを確認したこともある。
しかし、浮気の証拠となるものは何ひとつ見つからなかった。
ただ、携帯だけは暗証番号で固くロックされており、中を見ることはできない。
大人で遊び慣れた司のことだ。証拠など残さないだろう。
もし本当に浮気をしていたとしても、不貞を立証するのはほぼ不可能だと沙夜は感じていた。
そして臨月に入っても、司は相変わらず出張続きだった。
その日の朝、司は九州出張へ向かう前、沙夜と向かい合って朝食をとっていた。
食事中、珍しく司のほうから口を開いた。
「予定日も近いから、くれぐれも無理はしないように」
「分かりました」
返事をしながら、沙夜は胸の奥で思う。
司が心配しているのは自分ではなく、沙夜の体内に宿る“未来の跡継ぎ”なのだろう。
――大事な跡継ぎが無事に生まれるまで気を抜くな。
おそらく、そう言いたかったのだ。
朝食後、沙夜はいつものように司を玄関まで見送った。
靴を履き、いつもなら振り返らずに出ていく司が、この日は珍しく沙夜のほうを振り返った。
そして、彼女の額にかかった髪をそっと指で撫で上げる。
その一瞬の触れ合いに、沙夜の心臓が跳ねた。
――あのお見合いの日以来、彼に触れられたのは初めてだった。
「じゃあ、行ってくるよ。明日はなるべく早く帰るから」
「行ってらっしゃい」
「うん」
司は軽く頷き、玄関を後にした。
鍵を閉めながら、沙夜は思う。
(どうしたんだろう……なんか、いつもと違う)
司の小さな変化が気になったが、その違和感はすぐに消えた。
なぜなら、その日の体調がいつもと明らかに違っていたからだ。
午後になり、突然その異変は訪れた。
破水だった。
破水についての知識はあったが、いざ自分の身に起こると恐怖が押し寄せる。
司が手配してくれていた家政婦は、ちょうど買い物に出ていた。
父は仕事、親友の愛美は幼子を抱えており、頼ることはできない。
こんなとき頼れるのは、義理の母しかいなかった。
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義理の母・美智子とは、どこか距離感のある関係だった。
互いに常識の範囲で礼儀正しく接してはいるものの、親子らしい温かさとは少し違う。
沙夜は義母を“美智子さん”と呼び、美智子は“沙夜さん”と呼ぶ。
その呼び方からも、二人の間に漂うよそよそしさが感じられた。
それでも――こんなとき頼れるのは彼女しかいない。
「もし手助けが必要なときは、すぐに連絡しなさい」
そう言われていたことを思い出し、沙夜は震える指で美智子に電話をかけた。
二十分後、美智子が駆けつけてくれた。
「大丈夫? 歩ける?」
「は、はい……」
「じゃあ私の車で行きましょう」
普段は感情を表に出さない美智子が、今日はどこか焦っているように見えた。
その姿を見ながら、沙夜は幼いころの記憶を思い返す。
父が突然、「この人が新しいお母さんだよ」と紹介した女性――それが美智子だった。
結婚前、美智子は沙夜と同じ財前中央銀行の秘書室に勤務していた。
あれから二十年近く、彼女はずっと父を支え続けてきた。
今はそのことに、素直に感謝している。
美智子に支えられながらエントランスへ向かうと、黒塗りの車から運転手が降りてきて、沙夜を後部座席へと案内した。
車はすぐに、港区で有名な富裕層向けの産科専門病院へと走り出した。
診察を受けている間、美智子は夫の公彰、司の父、そして娘婿である司へと次々に連絡を入れていた。
破水した沙夜は、このまま普通分娩をすることになった。
陣痛の間隔が短くなり、すぐに分娩室へと移動する。
「お義母様はこちらでお待ちください」
「沙夜さん、しっかりね!」
「はい……」
苦しさを押し殺しながら、沙夜は精いっぱい笑顔を作った。
しかし、こんな大事なときに肝心の夫がいない――その事実が胸に突き刺さる。
痛みと悲しさが重なり、目尻には涙が滲んだ。
(こんな状態で生まれてくる子供は……本当に幸せになれるの?)
そんな不安が頭をかすめる。
同時に、梨花から聞いた司の浮気疑惑が胸を締めつけた。
(私は、結婚してすぐに裏切られてたの? あの結婚式での誓いは……嘘だったの?)
哀しみが込み上げ、とうとう涙が頬を伝った。
それに気づいた助産師が声をかける。
「大丈夫? 痛み、我慢できそうにない?」
「だ、大丈夫です……すみません」
「もうすぐ生まれるから、あと少しの辛抱よ。頑張ってね」
「……はい」
みじめさに胸が押しつぶされそうになりながら、沙夜は激しい腰の痛みに耐え続けた。
うんうんと唸り、必死に痛みをこらえる。
そうこうするうちに、いよいよ出産が目前に迫っていた。
「さあ、合図をしたら思い切りいきんでね。せーの、ほら頑張って!」
「うぅーっ……」
初めて味わう激痛が、華奢な体を容赦なく襲う。
“死んだ方が楽かもしれない”――そう思えるほどの痛みだった。
「ほら、頭が見えてきたわ! もうすぐよ! 頑張って!」
沙夜が最後の力を振り絞って大きくいきんだとき、分娩室に赤ん坊の泣き声が響き渡った。
「おぎゃーっ、おぎゃーっ」
「西園寺さん、無事に生まれましたよ。おめでとう。元気な男の子よ」
(男の子……ああ、よかった……これで役目は果たせた……元気に生まれてきてくれてありがとう……私の大切な赤ちゃん……)
涙があふれ、視界がぼやけていく。
そのまま、意識がふっと遠のいていくのを感じた。
「西園寺さん、どうしたの! しっかりして! 目を開けるのよ」
「は……い……」
沙夜は赤ちゃんをひと目見ようと、必死にまぶたを持ち上げる。
かすかに、小さな体が揺れているのが見えた――しかし、視界はすぐに暗く閉じてしまった。
次の瞬間、助産師の悲鳴にも近い声が分娩室に響き渡る。
「出血が止まらないわ! 先生を呼んで! 早くっ、先生を!」
看護師が駆け出し、分娩室の空気が一気に張り詰めた。
気づけば、床は血の海と化していた。
沙夜は産後の弛緩出血を起こしていた。
慌てて男性医師が飛び込んでくる。
「オキシトシン入れて! 早く! それとXTAも!」
「はいっ」
「どうだ?」
「だめです! 止まりませんっ!」
「よしっ、手で止血する! オキシもっと追加して!」
「はいっ!」
怒号と指示が飛び交う分娩室の喧騒が、遠くの出来事のように聞こえる。
沙夜の意識は、どんどん薄れていった。
そのとき、助産師が必死に呼びかける。
「だめよ、西園寺さん! しっかりして! お願いだから起きて!」
「大学病院への連絡は?」
「今、救急車が向かっています!」
意識が途切れる寸前、遠くで救急車のサイレンが鳴り響いたような気がした。
その音に紛れ、誰かが泣き叫んでいるような気がした。
――義母だろうか?
まさか、そんなはず……。
そう思いながら、沙夜は静かに目を閉じた。
そして、とうとう意識は完全に闇へと沈んでいった。
夕暮れどきの穏やかな街に――
緊迫した救急車のサイレン音だけが、何度も何度も響き渡っていた。
コメント
19件
沙夜ちゃん😢ひとりぼっちのお産よく耐えたね この後司はどう対応するのかな? 頑張った沙夜ちゃんを労って欲しいな😢
私も破水からでした。1ヶ月もはやく。 逆子で帝王切開が決まってすぐでたまたま麻酔やらの同意書書いたあとで、土曜日で。 担当の若い先生がお休みで連絡したからくるまでまつと言われたけど、遅くなるらしいからとベテランの先生に切ってもらい・・・などいろいろありました。 不安いっぱいなさよちゃん、ご無事でありますように。。。
破水してただでさえ心細い中、司さんへの愛も感じられず後継の子を産むだけの思いの沙夜ちゃんが大量出血🩸🩸🩸😱 こんな辛い思いをしながら意識を失ってこれからタイムスリップ💫するのかな⁉️ さぁ〜明日の更新で話がどう変わるのか、とっても楽しみです🤩🙌💖