相談室に入ってきた相談者は、椅子を見るなり少しだけ立ち止まった。
座れば逃げられない、と言わんばかりに。
結局、音を立てないように腰を下ろす。背もたれには触れない。身体のどこかが、常に次の衝撃を予測している姿勢だった。
「……“昔の話”じゃない」
絞るような声だった。
「今も、されてる」
遥は、頷きもしなければ言葉も挟まない。ただ視線を向ける。
「殴られるとか、蹴られるとかじゃないけど」
相談者は一瞬、笑いそうになる。いや、笑ったふりをした。
「毎日、確実に削られるやつ」
教室で起きること。
名前を呼ばれたあとに続く沈黙。
席替えの日、露骨に離される机。
小さな声で投げられる言葉。聞こえないふりをするのが前提のやつ。
「証拠は残らない。でも残る」
胸のあたりを、指で軽く叩いた。
「これが一番、きつい」
遥は、低く息を吐く。
「周りは?」
「知ってると思う」
相談者は、間を置かずに答えた。
「見てないわけない。でも、“いじめ”ってほどじゃない顔してる。だから誰も止めない」
一拍。
「むしろ、俺が空気壊してるみたいな顔される」
相談者は、頭(かぶり)を振った。
「笑わないと、変な顔される。怒ったら、“被害者ぶるな”って言われる。普通にしてても、目障りって顔をされる」
遥の指先が、机の縁で僅かに動いた。
「じゃあ、どうすればいいんだって話になる」
相談者の声が低く沈む。
「毎日、自分の居場所を探して動いてる。でも、どこにも“ここ”がない」
沈黙が落ちる。
重く、逃げ場のない沈黙。
「家に帰っても、落ち着かない」
相談者は言った。
「明日のこと考えると、身体が先に拒否する」
寝ようとすると、耳が授業中の笑い声を思い出す。
目を閉じると、呼ばれなかった名前が浮かぶ。
「終わったことなら、まだ耐えられる」
ぽつりと漏れた。
「でも、“明日も続く”って分かってる地獄は、別だ」
遥は、その言葉を聞いてから口を開いた。
「今も続いてるいじめは、“壊す前提”で進む」
相談者が顔を上げる。
「心を折るんじゃない。砕く。立て直せないように」
それは断定だった。
「周りが気づかない程度に。本人だけが狂うように」
相談者の喉が鳴った。
「……狂いそうになる」
「正常だ」
遥は静かに言った。
「人が人にそんな扱い受けて、壊れないほうがおかしい」
相談者は、目を伏せた。
「でもさ、“まだ耐えてるじゃん”って言われる」
声に、かすかな怒りが混じる。
「“生きてるなら大丈夫”って。じゃあ、どこまで行ったら“助けていい”になるんだよ」
遥は視線を逸らさない。
「限界を超えてからじゃ遅い」
相談者の拳が震える。
「俺、もう何も言えなくなってきてる」
声が薄くなる。
「つらいとも言えないし、苦しいとも言えない。言った瞬間、標的にされるのが分かってるから」
遥は、ゆっくりと言った。
「それは“我慢”じゃない。“拘束”だ」
相談者の目が揺れる。
「逃げられない場所で、黙ることを強制されてる。それを続けたら、自分の声がどこにあるのか分からなくなる」
相談者は、ぎゅっと目を閉じた。
「……もう分かんなくなってる」
長い沈黙。
「終わってない地獄では、前向きな言葉は毒になる」
遥はそう告げた。
「“頑張れ”も、“そのうち良くなる”も、今の状況じゃ刃だ」
相談者は、弱く笑った。
「じゃあ、どうすればいい」
「生き延びることだけを、最優先にしろ」
遥の声は低く、揺れなかった。
「良い人でいなくていい。強くも、前向きでもなくていい」
相談者は、呼吸を整える。
「逃げたいと思うなら、それは正常だ。逃げ道を探すのは、負けじゃない」
少しだけ、間を置いて。
「ここに来たのは、まだ壊れてない証拠だ」
相談者は、目を上げた。
「……壊れかけても、来ていい?」
「壊れかけた時ほど、来い」
遥はそう言った。
地獄は、今も続いている。
明日も、教室は変わらないかもしれない。
それでも、
“今も被害に遭っている”と、そのまま言っていい場所がある。
それだけで、人はぎりぎり踏みとどまれる。







