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放課後の教室は、冬の光が斜めに差し込んでいた。窓際の一番後ろ――“相談室”と呼ばれているその場所で、遥はノートを開いたまま座っていた。授業で散々殴られた思考は重く、家に帰ればまた別の種類の地獄が待っていることもわかっている。それでも、ここには人が来る。助けられるわけでも、救うわけでもない。ただ、話を聞くだけの場所。
今日の相談者は、教室の入り口でしばらく立ち尽くしていた。ノートを胸に抱え、視線を床に落としたまま。
「……入っていい?」
遥は静かにうなずいた。声を張るでもなく、優しいわけでもない。ただ、拒まない。拒む理由を持ち合わせていないだけだった。
相談者は机の前に立ち、深呼吸を一つしてから座った。言葉を探しているのが、見ていなくてもわかる気配だった。
「その……どこまで我慢していいのか、わかんないんだ。怒ったら嫌われる気がするし、嫌だって言った瞬間、全部崩れそうで」
遥の目が微かに揺れた。境界線。自分のものを持った記憶はほとんどない。家でも学校でも、線は他人の手で勝手に引かれ、それを越えられたら痛みで理解するしかなかった。
「……そっか」と遥は小さく言った。
相槌というより、確認に近い響きだった。
「我慢すると、まわりは喜ぶんだ。でも、無理した分だけ苦しくなる。どこで止まればいいのか……わかんない」
相談者は自分の指を強く握りしめていた。爪が手のひらに沈むほど。
遥は少しだけ視線を落とし、それから窓の外へ静かに向けた。遠くで部活動の声がしていた。あんな明るさを、自分はもう持ち合わせていない。
「……線ってさ。最初から見えるもんじゃないと思う」
相談者が顔を上げた。
「人が勝手に決める線もある。越えていいと思ってくるやつもいる。……こっちの痛みなんか見てないまま」
それは過去の説明ではなかった。今も続いている現実の延長線だった。
殴られて覚えた境界は、境界とは呼べない。ただの支配の印だ。
「でも……じゃあ、どうしたらいいの?」
「たぶん、嫌だって思ったところが、線なんだと思う」
遥は相談者を見る。その目は優しくはないが、逃げてもいない。
「言えなくても、言っていいと思う。言わないまま潰れるのは……ほんとは違うだろ」
相談者は少し息を呑んだ。
「言って、もし離れられたら?」
遥は迷いなく答えた。
「離れるやつなら……最初からそいつの線の中に、おまえはいなかったんだろ」
相談者はしばらく黙っていた。机の木目を指でたどるように撫でて、息を落とす。
「……言えないんだよ。怖くて」
「怖いのは普通だよ」
遥の声は静かだった。弱さを否定しない響きだけがそこにある。
「俺も、ずっと言えなかった。今も言えてないことだらけだ。でも、黙ってると……向こうは“問題ない”って思う。勝手に」
言っている本人が誰よりも傷ついている顔なのに、相談者はそれを突っ込むことができず、ただ聞くしかなかった。
外では吹奏楽部が下校のメロディを流し始めた。長い放課後が終わろうとしている。
「……話せただけで、線の場所は少し見えるよ」
相談者はゆっくりと目を閉じた。
その表情には、今にも崩れそうな危うさと、ほんの僅かな安堵が混ざっていた。
「ありがとう……」
言葉は震えていた。
遥は首を振るわけでも、笑うわけでもなかった。ただ、黙って視線をそらさずにいた。それだけが、ここでできる唯一の応答だった。
相談者が立ち上がり、教室を出るとき、夕暮れの光が遥の机に淡く残った。彼の影は細く、長く伸び、どこにも居場所を持たない影のようだった。
だがその場所には、今日もひとり、誰かが話を置いていった。
境界線のない世界で、誰かが線を探しに来る。
そのたび、遥は静かにそこにいる。