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ゆぴ
67
「帰るか」
いつもの調子で立ち上がる。
その一言が。
どうしようもなく。
遥を怖くさせた。
怖い。
なのに。
嫌じゃなかった。
そのことが、一番怖かった。
「……帰れよ」
小さく言う。
日下部が振り返る。
「何で」
「……別に」
「またそれか」
苦笑い。
「俺も帰るんだけど」
「……」
「方向一緒だろ」
「知らねぇ」
「知ってる」
笑う。
いつもみたいに。
何でもないみたいに。
遥は目を逸らした。
「先行け」
「嫌だ」
「何でだよ」
「何となく」
「意味分かんねぇ」
「俺も」
また笑う。
遥は俯いた。
駄目だ。
こういうの。
駄目なんだ。
こんな時間。
こんな空気。
慣れたら終わる。
なのに。
二人で教室を出た。
廊下。
階段。
昇降口。
他愛もない話をするわけでもない。
ずっと沈黙。
でも。
苦しくない沈黙だった。
靴を履き替える。
外へ出る。
夕方の風が吹く。
その時。
「おーい」
後ろから声。
二人が振り返る。
サッカー部の男子だった。
「日下部、帰んの?」
「おう」
「彼氏置いてくなよ」
笑い声。
日下部が「うるせぇ」と返す。
いつもの調子。
けれど。
遥の顔から血の気が引いた。
心臓が嫌な音を立てる。
周囲。
視線。
笑い声。
家。
颯馬。
全部が一瞬で頭をよぎる。
「……帰る」
足早に歩き出す。
「おい」
日下部が呼ぶ。
遥は止まらない。
「遥!」
声。
止まれない。
止まりたくない。
怖い。
怖い。
怖い。
逃げるように校門を出る。
信号。
横断歩道。
人混み。
夕暮れ。
背後から走る足音。
「待てって!」
肩を掴まれた。
反射的だった。
「触んな!」
振り払う。
日下部の表情が止まる。
遥自身も固まる。
数秒。
沈黙。
通り過ぎる自転車。
車の音。
夕方の街。
その中で。
日下部だけが、傷ついた顔をしていた。
「……悪い」
遥が先に言った。
癖みたいに。
反射みたいに。
「違う」
「違わねぇよ」
「違うって」
珍しく。
日下部の声が強かった。
「俺、お前に何した」
「……」
「何でそんな顔すんだよ」
「……」
「俺、そんな嫌か」
違う。
違う。
違う。
嫌じゃない。
だから。
怖いんだ。
けれど。
そんな説明をする言葉なんか持っていなかった。
「……嫌じゃねぇ」
やっと出た声。
日下部の目が少し動く。
「じゃあ何」
「……」
「何なんだよ」
困ったような。
苦しそうな顔。
遥は見ていられなくて俯いた。
「……分かんねぇ」
それは。
逃げでも嘘でもなく。
本当だった。
自分でも分からない。
何が怖いのか。
何から逃げているのか。
何でこんなに苦しいのか。
分からない。
分からないのに。
胸の奥だけが痛い。
すると。
日下部は大きく息を吐いた。
「ずりぃな」
「……」
「俺ばっか考えて。お前、何も言わねぇ」
少し笑う。
でも。
寂しそうでも怒っているわけでもない。
ただ。
疲れていた。
「俺、お前のこと好きなんだけど」
さらっと。
当たり前みたいに。
「だから放っとけねぇし、腹立つし、傷つくし、意味分かんねぇし。でも好きだから困る」
遥の呼吸が止まる。
「……っ」
「お前は?」
初めてだった。
こんなふうに聞かれたのは。
夕焼けの中。
遥は何も言えなかった。
好き。
そんなもの。
とっくに知っていた。
知ってしまっていた。
だから。
何も言えない。
言ったら。
認めたら。
もう戻れない気がして。
ただ。
唇だけが震えていた。
コメント
1件
うわ……第4話、すごく重くて、でもめちゃくちゃ刺さりました……。 “帰るか”の一言で遥くんがこんなに揺れるんだって思うと、もうその時点で胸がぎゅってなった。 日下部くんが「好きなんだけど」ってさらっと言っちゃうの、ずるいよ……でも本当にそう思ってるんだろうなって伝わってきて苦しい。 遥くんが言いたくても言えない“好き”とか“怖い”の間で震えてるのが、すごくリアルで。 ruruhaさんの静かな空気の描写、好きです……。