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階段裏の出来事は、昼休みが終わる頃には「知っている人間だけが知っている話」になっていた。
誰も全体像は知らない。
だからこそ、一番都合のいい形に歪められる。
日下部が教室に戻ったとき、空気が妙に軽かった。
軽い、というより――避けられている。
視線が合いそうになると、すぐ逸らされる。
誰も直接は何も言わない。
それが逆に、胸の内側をざらつかせた。
席に座ると、向かいの席から椅子を引く音がした。
蓮司だ。
「……よ」
軽い声。
いつも通りの調子だ。
「聞いた?」
その一言で、日下部の背中が硬直する。
「遥のこと。階段裏でさ」
言葉を選んでいるわけでも、探っているわけでもない。
ただ“事実として流れている話題”を口にしているだけ。
「……ああ」
日下部は短く答えた。
否定も肯定もできなかった。
蓮司は机に肘をつき、少し顔を寄せる。
「お前、気にしすぎなんだよ」
その声は低くもなく、高くもなく、
慰めにも忠告にも取れる曖昧さを帯びていた。
「別にさ。誰が悪いとか、そういう話じゃなくない?」
日下部の胸が、わずかに鳴る。
――違う。
そうじゃない。
遥が殴られた理由は、もっと単純で、もっと歪んでいる。
“見放された”という噂。
それを口実にしただけだ。
でも、それを説明する言葉が、喉まで上がってこなかった。
「……俺は、庇うつもりだったわけじゃない」
代わりに、そんな言葉が出た。
蓮司は小さく笑う。
「分かってるよ。だから言ってんじゃん」
くつくつ、と喉で鳴る笑い。
「お前が全部背負う必要ないって」
その言い方が、妙に優しかった。
日下部は一瞬、救われた気になる。
“理解された”と錯覚してしまう。
「お前まで変に巻き込まれたらさ、損じゃん」
その一言で、空気が少し変わる。
損──
その言葉だけが、静かに引っかかった。
「遥の問題は、遥の問題だろ」
言い切りではない。
提案でもない。
ただ、世界の構造を説明するような口調。
日下部は、何も言えなかった。
視線の端で、遥の席が見えた。
背中が丸く、机に伏せるように顔を落としている。
呼吸が浅く、時折、肩が小さく跳ねる。
痛みが残っているのは、見れば分かる。
「……あいつ」
名前を出しかけて、止めた。
蓮司は、その沈黙を遮らない。
待つ。
それができる人間だ。
「無理すんなよ、日下部」
静かな声。
「お前が我慢して潰れるとさ、誰も得しねぇから」
その言葉は、正しかった。
少なくとも、その場では。
日下部の胸の奥にあった“違和感”は、言語化されないまま奥へ押し戻される。
――確かに、自分が前に出ても状況は変わらない。
――むしろ悪化する。
そう考え始めた時点で、
もう半分、取り込まれている。
蓮司は立ち上がり、何事もなかったように席を離れる。
「ま、あんま深く考えんなよ」
振り返りもせずに、それだけ残して。
教室には、相変わらず軽いざわめきが戻った。
誰も遥の方を見ない。
誰も日下部に話しかけない。
日下部は、拳を膝の上で握りしめた。
庇えなかった。
守れなかった。
それでも――
“距離を取ること”が、正しい選択のように思えてしまった自分を、
まだ否定できずにいた。