テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
教室の空気は、音よりも先に形を変える。
誰かがわざとらしく椅子を鳴らし、
誰かが小声で名前を出し、
それを聞いた別の誰かが、確認もせずに受け取る。
蓮司は、机に頬杖をつきながら、それを眺めていた。
「なぁ、聞いた?」
後ろの席から声が飛んでくる。
「遥のこと。日下部がキレたって話」
蓮司は、視線を上げない。
「へぇ」
相槌だけ。
肯定も否定も含まない音。
「やっぱさ、あいつ重いよな」
「日下部も被害者じゃね?」
言葉は勝手に並び始める。
まるで“そういう結論で落ち着きたい”かのように。
蓮司は、そこで初めて顔を向けた。
「まぁ……」
間を置く。
ほんの一拍。
「日下部、ああいうの気にするタイプじゃないと思うけど」
柔らかい声。
攻撃性はない。
だが、その一言で、話の向きが微妙にずれる。
“日下部は怒る側ではない”
→“なら、悪いのは誰か”
→“事件が起きる原因を作ったのは誰か”
視線が、教室の奥――遥の席の方向へ流れる。
「……庇いすぎたんじゃね」
「利用されてた的な?」
誰かが言った言葉に、別の誰かが頷く。
蓮司は、それを止めない。
訂正もしない。
ただ、話題の中心にいないことで、
この空気が“自然発生したもの”になるよう整えていく。
昼休みが終わるころ、
“階段裏の件”は、すでに形を変えていた。
・日下部は気の毒
・遥は依存が強い
・関わると厄介
・善意が仇になった
誰も、「暴力」に重きを置かない。
誰も、「殴った側」を具体的に言わない。
結果だけが残る。
——遥は、避けられる存在。
——日下部は、巻き込まれた被害者。
放課後前、日下部は廊下で誰かに声をかけられた。
「大丈夫?」
その言葉に、一瞬言葉を失う。
「……何が?」
「いや、ほら。あの件」
あの件。
それだけで済まされる程度の出来事になっている。
「無理すんなよ」
「距離、取った方が楽だって」
同じ言葉。
さっき蓮司が言ったのと、ほとんど同じ。
日下部の胸が、ひやりとする。
――広がってる。
そう理解したときには、もう止めようがなかった。
視線の先で、蓮司が友人と笑っている。
いつもと変わらない。
何かを指示した様子もない。
それなのに、
空気は確実に“整えられて”いた。
遥は、教室にいた。
席に座り、教科書を開いているフリをしている。
だが、ページは一枚もめくられていない。
息をするたび、わずかに肩が揺れる。
目が合いかけて、日下部は反射的に逸らした。
――今、声をかけたら。
――また何かが歪む。
根拠はない。
けれど、そう思ってしまった。
放課後、蓮司が隣に並ぶ。
「な」
軽い調子。
「しばらく、距離置いとけって」
忠告に近い。
でも命令ではない。
「空気、悪くなる前にな」
日下部は、返事をしなかった。
肯定も否定もできない沈黙を、
蓮司はそのままにして、歩みを進める。
その背中を見送りながら、
日下部は初めて、はっきり思った。
――自分は、今
――“守られている側”と“見捨てられる側”の境目に立たされている。
そして、その境界線を引いているのが
誰なのかを、まだ理解できずにいた。