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午前の朝風通りは、笑い声で少しずつ温度を上げていった。
最初の語り場では、アンネロスが焼き菓子店の前へ立ち、胸を張って言った。
「私は昔、クッキー缶ひとつで夫婦喧嘩を止めたことがあります」
観客が早くも笑う。
いかにも嘘らしい話しぶりで、彼女は缶のふたを武器のように掲げた。
「あの日、うちへ飛び込んできたのは、向かいの布団屋の夫婦。理由は味噌汁の濃さ。小さい? 小さいわね。でも当人たちは真剣よ。私はとっさに焼き菓子を渡して、『口がふさがると人は優しくなる』と言ったの」
大げさな身振りに笑いが広がる。
けれど最後に彼女は、少し声を落とした。
「本当はね、甘い物を渡したかっただけ。どっちも、怒る前は相手の好きな味を知っていたんだから」
客の流れが、語りのあと自然に焼き菓子店へ向かう。花屋の前でも、受け取った地図を見ながら次の場所を相談する声が増えた。
エルドウィンの語りは、さらに豪快だった。
「荷台の上で人生が変わったことがある」
そう切り出した彼は、自分の勤める運送車の荷台をどれだけ寝心地が悪いかから話し始めた。笑いが起きる。
「でも、台風の日、濡れた荷を守ろうとして、荷台の奥へ潜り込んだ高校生がいた。家に帰りたくなくてな。俺はそいつに段ボールを一枚渡して、せめて座れって言った」
観客の笑いが、そこで少し止まる。
「そいつは今、ちゃんと家へ帰ってる。荷台は人生相談向きじゃないが、ときどき人を生き延びさせる」
その話を聞いたあと、花屋へ寄っていく客の顔は、ただ面白がっているだけではなかった。誰かの話を聞いた足で、花を買う。焼き菓子を包んでもらう。神社へ向かう。町の中を、人の気持ちが歩いていた。
ハヤは受付の合間に、その流れを何度も見た。笑ったあとで、店へ向かう足が少しだけ丁寧になる。語りはただの見世物ではなく、店へ入る前の心の向きを変えていた。
白群リゾートの担当者たちが視察に来たのは、その頃だった。揃いの上着に、整いすぎた笑顔。けれど通りへ足を踏み入れた瞬間、三人とも少しだけ戸惑った顔をした。
数字に置き換える前の熱気を、たぶん想像していなかったのだ。
ノイシュタットが少し離れた場所から、その様子を眺めていた。以前ならすぐに前へ出て、もっと見栄えのいい言葉を並べただろう。けれど今日は何もしない。町の声が、自分で十分に立っていると知っているからだ。
通りの中ほどで、子どもが母親の袖を引いた。
「次、花屋さん行きたい。白い花、見たい」
その声が聞こえた瞬間、ハヤの喉の奥が少し熱くなる。
嘘みたいな本当の話は、人を笑わせるだけでは終わらない。
ちゃんと、次の一歩を動かしていた。
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