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無罪になった男――仮にそう呼ばれている人物は、拍子抜けするほど普通の生活を送っていた。
「……普通すぎない?」
燈が、コンビニ前の電柱にもたれながら言った。
張り込みというほど大げさなものではない。ただ、学校帰りに寄り道する感覚で、対象の生活圏を眺めているだけだ。向かいの小さなアパート。二階の角部屋。洗濯物はきちんと干され、ベランダにゴミ袋が溜まっている様子もない。
「普通、だね」
玲はスマホの画面から目を離さずに答えた。画面には、男の勤務先と生活リズムをまとめた簡単なメモが表示されている。
「朝七時に出勤。夕方六時前後に帰宅。週末はほぼ在宅。近所トラブルなし。職場評価も可もなく不可もなく」
「絵に描いたような“普通”だな。事件後も生活は変わっていない。
以前と同じ生活を続けている」
燈は鼻で笑った。
「逆に怪しいって言いたい?」
真琴が、二人の間に割って入る。紙コップのコーヒーを両手で持ち、のんびりした口調だ。
「怪しいっていうかさ……」
燈はアパートの出入口を見つめたまま、言葉を探すように間を置いた。
「事件のあと三年だろ? 普通、どっか歪むだろ。仕事変えるとか、人付き合い切るとか、逆に荒れるとか。なのに、なにもない」
「無罪判決を受けた人が、平穏に暮らしてるのはおかしくないと思うけど」
玲は淡々としている。
「そう。理屈ではな」
燈は肩をすくめた。
「でもさ、こいつの場合、“平穏である努力”すら見えないんだよ。頑張って普通にしてる感じがしない」
真琴は少し考えてから笑った。
「それ、褒め言葉じゃない?」
「そう受け取れるならな」
燈はコーヒーを一口飲んでから続ける。
「周囲の目を気にしてる様子もない。視線を避けるでもなく、堂々と歩く。無罪だから当然って顔してる」
「無罪だから、当然なんじゃないの?」
今度は、少し遅れて澪が口を開いた。彼女は最初からあまり喋らず、通行人や車の流れをぼんやり眺めていた。
「……うん。そうなんだけど」
燈は澪の方を見る。
「“当然”って思えるほど、軽い事件だったか?」
一瞬、沈黙が落ちる。
事件の概要は、全員頭に入っている。状況証拠だけが積み上がり、決定打はなく、自白もない。だから無罪。それ自体は、誰も否定していない。
「ここ、見て」
玲がスマホを少し傾けて、二人に見せる。
「近所の聞き取り。ほとんどの人が『感じのいい人』『普通』『特に印象に残らない』って言ってる」
「印象に残らない、ね」
燈が繰り返す。
「事件前から?」
「うん。事件前も後も、ほぼ同じ評価」
「……作られすぎじゃない?」
真琴が首を傾げた。
「作られすぎ?」
「“説明しやすい人”って感じ」
真琴の言葉に、玲がわずかに眉を動かす。
「説明しやすい?」
「善人でも悪人でもない。被害者でも加害者でもない。どの立場から見ても、扱いやすい」
燈は、少し楽しそうに続けた。
「だからこそ、裁判でも扱いやすかったんじゃないか」
「それは飛躍しすぎ」
玲は即座に切り捨てる。
「裁判の結論と、今の生活は別」
「分かってる」
燈は両手を上げて降参のポーズを取った。
「分かってるけどさ。……なんか、揃いすぎなんだよ。生活も、評価も、時間も」
澪は黙ったまま、アパートの入口を見つめていた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「……時間、か」
「どうした?」
真琴が振り向く。
「帰宅時間、毎日ほぼ同じだよね」
玲が即座に答える。
「誤差は十分以内。珍しくはない」
「うん。珍しくはない」
澪はそれ以上言わなかった。
男がアパートに戻ってきた。スーパーの袋を下げ、足取りは軽い。誰かに見られているとも思っていない様子で、鍵を開けて中に消える。
「まあ」
真琴が、空気を和らげるように言った。
「身辺調査としては、問題なし、だね」
「だな」
燈は不満そうだが否定はしない。
「危険性なし。問題行動は見当たらない。 トラブルの再燃はない」
玲がまとめる。
澪だけが、少し遅れて頷いた。
「……うん」
その返事は、どこか歯切れが悪かったが、誰も深く突っ込まなかった。
今日のところは、ここまで。
そう決めたのは、全員だった。