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空き店舗の外へ出た時には、夕方の光がかなり薄くなっていた。
商店街のアーケードを抜ける風は、昼に降った雨の名残をまだ抱えている。三人の客が帰ったあとも、拍手の余韻だけが店の中に残っていて、誰もすぐには片づけへ移れなかった。
その空気を、アルヴェの一言が切った。
「デシア、少しいいか」
名前を呼ばれたデシアは、原稿を抱えたまま動かなかった。モルリが一歩前へ出る。
「何しに来たの」
「見に来ただけじゃない」
「十分やな感じ」
ヌバーが小声で言い、ホレが肘で小さく止めた。
アルヴェは店の奥にいる全員を順に見た。見下すでもなく、媚びるでもない。けれど、その落ち着きが逆に腹立たしい。
サベリオは壁際で腕を組んだまま、彼の視線を受け流した。
「その続き、あるって聞いた」
アルヴェはそう言って、デシアの手元の原稿を見た。
「『春の音』、まだ終わってないんだろ」
デシアの指がわずかに強く紙を握る。
「……知ってるくせに」
「知ってるから来た」
声は低い。昔から知っている者にしか出せない距離の音だった。
サベリオの胸の奥がざわつく。
モルリが間に立とうとしたが、デシアは首を横に振った。
「少しだけ」
その一言だけ残して、彼女は店の外へ出る。
アルヴェもついていく。
ガラス越しに二人の背中が並ぶ。商店街を抜け、橋の方へ向かっていく。歩幅が合っているのが、余計に目についた。
ヌバーが露骨に顔をしかめる。
「何、あの並び。昔のやつ?」
「知らない」
サベリオは即答した。即答しすぎたせいで、逆に何か知っているように聞こえた気がして、舌打ちしたくなる。
ホレが心配そうに外を見る。
「追いかける?」
「追いかけない」
「でも顔が追いかけてる」
モルリがいないせいで止める者がなく、ヌバーの言葉がそのまま飛ぶ。
サベリオは椅子をたたみ始めた。必要以上に固い音が鳴る。
「片づけるぞ」
「はいはい。雑」
ミゲロだけは何も言わず、彼の手元から椅子を半分受け取った。
その無言の気遣いが、逆に痛い。
片づけを終えた頃には、空はすっかり群青に変わっていた。
デシアはまだ戻らない。
サベリオは結局、一人で橋の方へ歩いた。追いかけるつもりはない。そう思いながら、足だけが勝手に速くなる。
星降る橋の上は夜風が強い。欄干の向こうを流れる川が、黒い帯みたいにうねっている。
橋の中央近く、街灯の下に二つの影があった。
アルヴェとデシア。
向き合って話している。ただそれだけだ。肩が触れているわけでもない。笑っているわけでもない。
それでも、サベリオの足はそこで止まった。
聞こえたのは、アルヴェの声の最後だけだった。
「……だから、君に渡したかった」
デシアは何か返した。風にさらわれて、言葉までは届かない。
サベリオは一歩も近づけなかった。
橋の上の風は冷たいのに、喉の奥だけが妙に熱かった。