テラーノベル
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事務所のドアが閉まる音がして、ようやく室内が静かになった。
「……で、どう思う?」
真琴がコーヒーを淹れながら言う。問いかけの形はしているが、特定の誰かを見ていない。いつもの癖だ。
「どうもこうもないだろ」
燈は椅子の背にもたれ、腕を組んだまま吐き捨てる。
「無罪。以上。終わり。はい解散」
「投げやりすぎない?」
「投げてない。ちゃんと見た結果が“何もない”ってだけ」
玲が机の上の資料を一枚ずつ揃えながら、淡々と口を挟む。
「状況証拠は弱い。物証なし。第三者の目撃なし。自白もなし。判決は妥当」
「ほら」
燈は顎をしゃくる。
「ロジック担当のお墨付き。これ以上、何を探せって?」
澪は何も言わず、窓際でスマホをいじっていた。画面を見ているというより、光を避けるように伏せているだけに見える。
「……一応さ」
真琴がコーヒーカップを置く。
「身辺調査、って依頼だったよね。判決の是非じゃなくて」
「だから“普通に暮らしてる”って確認して終わりでいい」
「燈」
「なに」
「あなた、外に出たいだけでしょ」
一瞬の沈黙。
「……悪い?」
「いいよ。ついでに見てきて」
真琴はあっさり言った。
「玲は残って整理。澪は……」
「行かない」
即答だった。
「今回は、いい」
澪はそれだけ言って、視線を落とす。
燈は立ち上がり、上着を掴む。
「じゃ、俺一人で十分だな。相手、一般人だし」
「無罪になった“一般人”ね」
真琴が軽く言い直す。
「はいはい」
燈は手を振って事務所を出た。
対象の男は、駅から少し離れた住宅街に住んでいた。
昼間。洗濯物が干され、近所の子どもが自転車で通り過ぎる。拍子抜けするほど、何もない。
(……本当に、何もないな)
燈は少し離れた場所から、男の家を眺めていた。
男は普通に働き、普通に帰ってくる。近所付き合いも最低限。噂話も聞こえてこない。
「無罪です、って顔してる」
思わず独り言が漏れる。
尾行と呼ぶほどのものでもなかった。数時間、距離を保って歩き、コンビニで買い物をするのを見て、駅で別れた。
帰り道、燈は小さく舌打ちする。
(綺麗すぎる)
疑う理由がない、という意味で。
事務所に戻ると、玲がホワイトボードの前に立っていた。
時系列が簡潔にまとめられている。誰が見ても分かりやすい。
「早かったね」
真琴が言う。
「成果ゼロ」
燈は椅子に座る。
「普通。異常なし。完璧な一般人」
「じゃあ、依頼どおり」
真琴はうなずいた。
「“問題なし”で報告できる」
玲がペンを置く。
「補足するなら、証言の整合性が高すぎる点はある」
「またそれ?」
燈が眉をひそめる。
「高いならいいだろ。揃ってるってことじゃん」
「揃いすぎている」
玲は訂正する。
「でも、それは警察の聞き方の影響で説明可能」
「ほら」
燈が言う。
「説明つく」
そのとき、コピー機の前にいた伊藤が、紙を揃えながらぽつりと言った。
「年表にすると、余計に綺麗だな」
全員の視線が一瞬、そちらに向く。
「分かりやすいって意味で」
伊藤は穏やかに笑った。
「依頼人にも説明しやすい」
「だよね」
真琴が同意する。
「それ、大事」
澪だけが、ホワイトボードを見たまま動かなかった。
「……ね」
小さな声。
「なに?」
真琴が聞き返す。
「証言ってさ」
澪は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「こんなに、同じ形になるもの?」
一拍。
「なるでしょ」
燈が即答する。
「事件なんて、だいたいそんなもん」
「そう」
澪はそれ以上言わなかった。
伊藤は何事もなかったように資料をファイルに戻す。
「では、この件は整理完了だな」
「うん」
真琴が言った。
「次、行こっか」
事件は終わった。
――そのはずだった。
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