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その日の探偵社は、妙に整っていた。机の上に積まれていた書類は片づけられ、ホワイトボードも消されている。
いつもなら誰かが残すコーヒーカップも、今日は流しに伏せられていた。
澪は、その「何もない感じ」が気になっていた。
仕事は終わっている。
依頼人も納得して帰った。
報告書も提出済み。
なのに、空気だけが終わりきっていない。
「……なんかさ」
燈がソファに寝転びながら言う。
「今回の件、夢みたいじゃなかった?」
「どういう意味?」
「最初は“怪しい人物がいる”って話だったのに、結局、誰も犯人じゃなかった」
玲はキーボードを打つ手を止めずに答える。
「犯人がいない事件は、珍しくない」
「でも」
燈は天井を見る。
「被害者も、いないって顔されてた」
澪は、少しだけ肩をすくめた。
「“被害”の定義に入らなかっただけ」
真琴はファイル棚の前に立っていた。一度戻したはずの事件ファイルを、また引き抜く。
「これさ。分類、どうする?」
「ハラスメント?」
「いや」
玲が即座に否定する。
「断定できない」
「じゃあ」
真琴は困ったように笑う。
「“相談未満”?」
伊藤が静かに口を挟む。
「俺は、“記録案件”がいいと思う」
全員が伊藤を見る。
「解決したかどうかではなく、残したかどうかで分類する。そういう棚が、ここには必要だ」
真琴は少し考え、頷いた。
「……いいね」
澪は、依頼人が最後に置いていった言葉を思い出していた。
《説明できる資料を、次の場所で使います》
説明する、という行為。
それは戦うことでも、訴えることでもない。
ただ、自分の体験を
「なかったことにしない」ための作業。
澪はそれが、ひどく疲れる行為だと知っていた。
「ねえ」
燈が突然、澪に向かって言う。
「自分だったら、どうする?」
「何が?」
「同じ立場だったら」
少しの沈黙。
澪は正直に答えた。
「……たぶん、説明できるようになるまで、時間がかかる」
「それでも?」
「それでも」
澪は視線を落とす。
「言葉を探すと思う」
玲が、ようやく画面から目を離した。
「今回の依頼人は、説明できる場所を、ひとつ得た。それだけで十分」
探偵社は、問題を解決する場所ではあるが、人生を立て直す場所ではない。
それでも、何かを渡すことはできる。
地図の端に、印をつけるくらいなら。
夕方、誰もいなくなった事務所で、澪は一人残っていた。
棚の一番下。新しく貼られたラベル。
「記録案件」
その中に、あの事件は静かに収まっている。
誰にも読まれないかもしれない。
もう二度と開かれないかもしれない。
それでも、そこにある。
澪は棚を閉め、照明を落とした。
余白は、埋めるためにあるとは限らない。
残しておくことで、守れるものもある。
探偵社の夜は、静かに更けていった。