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雨の細さにだまされるな、とマクスミリンが低く言った。地面の中はまだ緩い。崩れた土の縁に荷重をかければ、見た目より先に足が持っていかれる。
エルドウィンは太いロープを広げ、手早く結び目を作った。固定点は山側の杉の根元と、少し離れた大きな岩。二重に取り、さらに補助の細いロープを加える。金具の擦れる音が、山の中ではやけに硬く響いた。
「最初に渡るのは俺」
エルドウィンが言う。
「いや、固定確認はこっちでやる」
マクスミリンが短く返す。
結局、二人が同時に動いた。エルドウィンが体重を預け、マクスミリンが地面の沈み方を見る。無駄な言葉がひとつもない。
向こうの小広場では、町外から来た夫婦が互いの腕をつかんでいた。役場の若手職員は平静を装っているが、靴の先が落ち着かない。
ノイシュタットが声を張る。
「皆さん、今から順番にこちらへ移ります。英雄的な跳躍は不要です。今日は地味に助かる日です」
ハヤは思わず横を見た。
「そのくらいなら許容範囲です」
「評価が甘い」
最初に渡したのは細い補助ロープだった。向こうで職員が受け取り、腰へ回す。エルドウィンが足場板を二枚つなぎ、崩れた部分へ仮の通り道を作る。完全な橋ではない。命を預けるのは板ではなく、ロープと人の手だ。
「一人目、どうぞ」
ハヤが呼ぶ。
「佐伯さん、右足から。目線は下じゃなくて、こっちです」
名前を呼ばれた中年の女性が、強くうなずいた。手が震えている。けれど、自分の名が確かに届いたと分かった顔をした。
ドゥシャンは崩落の手前で、両手を口に添えて声を送り続けた。
「大丈夫です! あと三歩! 板の継ぎ目あります! そこだけ気をつけて!」
途中で自分の声が震えたのか、一度だけ咳き込む。それでもやめない。
女性がこちらへ渡り切った瞬間、エフチキアが下で用意していた毛布が届いた。彼女は山へ上がってはいないが、ふもとで温かい飲み物と記録の紙を整え、戻った人をすぐ受け取れる形を作っていた。
二人目、三人目と続く。役場の若手職員は最後まで「自分は後でいい」と言っていたが、オブラスがきっぱり言った。
「そう言う人ほど、先に渡ってもらいます。指示に従ってください」
職員は顔を赤くし、それでも従った。板の中央で一瞬足が滑る。空気が縮む。次の瞬間、ロープが張り、エルドウィンの腕が引き、マクスミリンが固定を押さえた。
「前を見て!」
ハヤの声が、思ったより遠くまで届いた。
「あなたの名前、まだ下で書いてません。こっち来てからです!」
その言葉で、職員は踏みとどまった。顔を上げ、一歩、一歩、こちらへ渡る。
全員がこちら側へ移った時、雨はようやく止み始めていた。木の葉から最後のしずくが落ちる。遠くで、遅れて来る消防車のサイレンが細く聞こえた。
ドゥシャンはその場へへたり込み、両手で顔をこすった。
「足、まだある……」
「あるに決まってるでしょう」
ハヤが言うと、彼は情けない顔で笑った。
山の匂いの中で、ロープだけがまだぴんと張っていた。命綱は飾りではない。誰かが落ちそうな時、名前を呼びながら、離さないための形だ。