勤務開始の5時が近づくと、栞は勉強を切り上げて片付けを始めた。
席を立つ前に、ランチとパフェの代金を払おうと伝票に手を伸ばしたが、直也に制止される。
「いいよ、ご馳走するから」
「え? でも……」
「サインのお礼だし、気にしなくていいから」
「じゃあ、ランチ代だけでも……」
「それもいいよ」
「でも、それじゃあ……」
「本当にいいから。それよりもうバイトの時間だろう?」
引く気配のない直也に、栞は申し訳なさそうに礼を言った。
「すみません……ごちそうさまでした」
「うん、バイト頑張れよ」
栞はペコリとお辞儀をすると、バックヤードへ向かった。
ユニフォームに着替え、フロアに戻ると、直也はまだパソコンに向かい執筆を続けている。
栞がもらった本も、こうして執筆されていたのかと考えると、妙に感慨深かった。
その後も、直也は帰る気配がなかった。
店内が徐々に夕食時の賑わいを見せ始めると、ようやく直也がその騒めきに気づいた。
パソコンから手を離した直也は、机の上の呼び出しボタンを押した。
すると、すぐに栞がやってきた。
「先生?」
「生姜焼き定食を一つお願い」
「え? 先生、夕食もここで食べて行くのですか?」
栞が驚いて尋ねると、直也は軽く頷いてから言った。
「今、筆が乗ってるんだ。だから区切りのいいところまで仕上げちゃいたいんだよ」
「わかりました、生姜焼き定食ですね。少々お待ちください」
栞は注文を受けて、バックヤードへ戻った。
その後ろ姿を、直也は微笑みながら見送る。
そんな二人の様子をニコニコしながら見ていた瑠衣は、遅番で入ってきた高柳優斗に話しかけた。
「あの人、栞ちゃんの知り合いなの」
「あのワイルドなイケメン? あれ……あの人、なんか前にも見た気がするなぁ……」
「本当?」
「うん。カッコいい人だから覚えてるよ」
その一言に、瑠衣が慌てて問い詰める。
「まさか優斗さんの趣味ってそっち系?」
「え? ち、違う違う、そんなんじゃないよ。あの人、堂々としていて芸能人みたいなオーラがあるだろう? だから印象に残ってたんだよ」
「なんだー、私、てっきり男性に興味があるのかと思っちゃったー」
瑠衣の言葉に、優斗は声を上げて笑った。
そこへ栞がやってきたので、瑠衣はすかさず声をかける。
「栞ちゃん! 貝塚先生、前にもここに来てたんだって!」
「そうなの?」
「うん、僕は二度くらい見た覚えがあるよ」
その言葉に、栞は驚いた表情を見せた。
「もしかして、栞ちゃんに会いたくて来てたんじゃないのー?」
「えっ、そうなの? 二人はそういう関係?」
優斗までそんなことを言い始めたので、栞は慌てる。
「ち、違うよ! そんな訳ないから……」
栞には、なぜ直也が何度もこの店を訪れていたのか不思議だった。
多忙な大学病院の医師が、貴重な休みの日にわざわざここへ来るだろうか?
今日は実家に寄った帰りだと言っていたが、直也は実家のクリニックに週一度通っている。
だから、休みの日にわざわざここへ足を運ぶ必要などないはずだ。
その時、客からの呼び出しベルが鳴ったので、栞はその場を離れた。
結局、直也は栞が仕事を終える午後8時まで店にいた。
栞は、こんなに長時間店にいる客を見たのは初めてだった。
仕事を終えた栞は、スタッフに挨拶を済ませると、ロッカーで着替えをしてから店の裏口へ向かった。
その頃、直也は駐車場にいた。
栞がバックヤードへ消えると同時に、彼は荷物を片付けて会計を済ませた。
そして車まで行くと、すぐにエンジンをかけて車内を温め始めた。
ちょうどそこへ、裏口から出てきた栞が通りかかった。
「送ってくよ!」
直也が駐車場にいると思っていなかった栞は、びっくりして立ち止まった。
「大丈夫です。電車で帰れますから」
「遠慮しなくていいよ、通り道だし。さぁ、乗って!」
「先生、寄り道ばかりしていて大丈夫なんですか?」
「ん? 今日は休みだから問題ないよ。ほら、早く乗って!」
直也のあっけらかんとした態度を見た栞は、思わずクスッと笑った。
そして、ドアを開けて待っている直也の傍へ行き、助手席に乗り込んだ。
車内の空気は暖まっていた。直也があらかじめ温めておいてくれたのだろう。
「2月が一番冷えるなぁ」
寒そうに運転席に乗り込んできた直也が言った。
車が動き出すと、直也は慶尚大学時代のいろいろな話を栞に聞かせてくれた。
学食の人気メニューや、サークル活動について、大学の名物教授のユニークな話や、当時通っていた芸能人の話など、栞にはどれも新鮮で興味深い話ばかりだった。
中でも特に栞がおもしろいと思ったのは、直也の同期でプレイボーイとしても名高い高見沢圭という友人が、ミス慶尚に告白してあっさり振られたというエピソードだった。
栞は思わず声を上げて笑った。
「あいつはイイ男なのに、自信過剰なのがたまに傷なんだよなぁ」
直也の言葉にクスクスと笑いながら、栞はふと思った。
大学に入れば、自由が待っている。もちろん、恋愛のチャンスもたくさん転がっているのかもしれない。
直也の話を聞けば聞くほど、栞は慶尚大の学生になりたいという気持ちが一層強くなった。
やがて車は、栞の家がある町内へと入った。この時間帯、閑静な住宅街を通る車はほとんどない。
その時、直也がハザードランプをつけ、車を道路脇に停めた。
「どうしたんだろう?」と栞が不思議に思っていると、直也が静かな声で言った。
「試験の結果が出たら教えてくれる? たぶん、結果が気になって仕事に集中できないと思うからさ」
「え?」
「駄目かな?」
「いえ、駄目では……先生は私の恩人ですから」
「恩人?」
「はい。私、あの本にすごく救われたので」
「ハハッ、嬉しいことを言ってくれるなぁ……ありがとう」
直也は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、連絡先を交換しよう」
栞はうんと頷き、ポケットから携帯を取り出した。
そして、二人は連絡先を交換した。
直也はホッとした様子で携帯をポケットにしまうと、再びアクセルを踏み込んだ。
「恥ずかしいとかみっともないとか思わずに、落ちてもちゃんと報告しろよ!」
「分かりました」
「僕の後輩になれるといいな! 合格できるよう応援してるよ」
「ありがとうございます」
その時、栞はハンドルを握る直也の横顔をそっと見つめた。
真っ直ぐに前を見据える彼の横顔は、とても男らしくて素敵だった。
しかし、直也に会うのは今日が最後かもしれないと思うと、栞の視界がかすかに滲んできた。
やがて車は、栞の家の近くへと差し掛かった。
自宅から100メートル手前のところで、栞が慌てて言った。
「今日はここで大丈夫です」
「家の前まで行くよ」
「いえ、ここで…….」
また華子に見られたら困ると思い、栞は慌てて手前で降ろしてくれるように頼んだ。
その必死な様子を見た直也は、何かあるのだろうと察し、そこで車を停めてくれた。
「じゃあ、結果を待ってるよ!」
直也は笑顔で言うと、栞に向かって手を差し出した。
「?」
「僕と握手をすると、運気がアップするぞ!」
そこで栞はその手の意味が分かった。そして、差し出された大きな手を握り返した。
ギュッと握った直也の手のひらは、とても温かかった。
そして、車を降りた栞は、直也の車を見送った。
直也の車が見えなくなると、栞はゆっくりと歩き始める。
歩きながらふと夜空を見上げると、星がキラッと輝いて一直線に流れていった。
(あ、流れ星!)
栞は思わず立ち止まり、まだうっすらと残る星の軌跡をじっと見つめた。
冬の乾いた空気がひんやりとする、星の綺麗な夜だった。
コメント
16件
直也先生大人❣️周りから栞ちゃんを見守る振りをしながら連絡先交換とかしてる(*≧∀≦*) これで合格発表の連絡ももらえるし その後誘うこともできるし❣️ 栞ちゃんと先生の事は流れ星がそっと見守っていますね🌟
直也先生、きっと心配で栞ちゃんのいない時にバイト先に来ていたんだろうな😽そしてさりげなく車を暖気して待っていてくれたり大学合格の連絡を取るためにお互い連絡先を交換したり🌸 栞ちゃんがこれが最後かと心配になるのもわかる😢でもきっと先生はきっと栞ちゃんのそばから離れないと思うし、栞ちゃんが見た流れ星🌠💫は希望の流れ星だと思うな✨✨
直也せんせー、半グレ警戒しつつの栞ちゃんのバイト姿を見つつ、栞ちゃんの友人環境もチェックしてたのかな~? バイト先では栞ちゃんイキイキしてますね🥰 しっかり連絡先も交換して、あとは大学に合格するだけですね📣✨ 栞ちゃん、明るい未来に向かって頑張れ✊⤴️⤴️