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久我は、庁舎の屋上に出ていた。
夜風は冷たく、肺の奥まで澄んだ空気が入り込む。ネクタイを緩めても、胸の圧迫感は消えなかった。
共感は、罪になる。
黒瀬の言葉が、反芻される。
それは脅しでも忠告でもない。事実を告げただけの声だった。
久我は煙草を取り出しかけて、やめた。
代わりに、スマートフォンを手に取る。
開いたのは、過去の事件ファイルだった。
七年前。
大学生暴行致死事件。
容疑者は一人。状況証拠は揃っていた。供述も取れた。
――だが、それは“作られた流れ”だった。
取り調べを担当したのは、当時の久我ではない。
それでも、若手捜査官として、調書の整合性を確認し、疑問点に目をつぶったのは自分だ。
「早く終わらせよう。世間がうるさい」
上司の言葉を、今でも覚えている。
正しい手続き。正しい判断。
それらが積み重なった結果、一人の人生が折れた。
無罪判決が出たのは、三年後だった。
だがそれは、真実が明らかになったという意味ではなかった。
冤罪が疑われたまま、検証も総括もされず、裁判記録だけを残して、事件は実質的に闇に葬られた。
久我はスマートフォンを閉じ、目を伏せた。
黒瀬は、どこまで知っている。
いや――どこまで“見ている”。
屋上を出て、廊下を歩く。
気づけば、取り調べ室の前に立っていた。
――会うつもりはなかった。
それでも、足は止まらない。
ドアを開けると、黒瀬は椅子に座ったまま、静かに顔を上げた。
「外は寒いでしょう」
久我は、言葉を失う。
「……なぜ分かる」
「歩き方が変わっています。
肩に力が入るのは、冷えか、迷いのどちらかです」
久我は、無言で椅子に腰を下ろした。
録音機は置かなかった。
「君は……私の過去を、どこまで知っている」
黒瀬は、少しだけ考える素振りを見せた。
「必要なところまで」
「冤罪事件のことか」
黒瀬は、ゆっくりと頷いた。
「あなたは、あのとき“悪意”を持っていなかった。
それが、いちばん残酷です」
久我は、視線を伏せる。
「……言うな」
「言いません。だから、ここにいます」
黒瀬の声は低く、静かだった。
「外で話せば、あなたは防御します。
でもこの部屋では、あなたは逃げられない」
久我は、苦く笑った。
「……檻の外にいるのは、どちらだ」
「さあ」
黒瀬は肩をすくめる。
「でも、少なくとも今は――
あなたのほうが、自由ではない」
久我は、その言葉を否定できなかった。
正義の外側に出る勇気も、内側に戻る覚悟もない。
「黒瀬」
低く名を呼ぶ。
「君は、なぜ私にここまで踏み込む」
黒瀬は、しばらく沈黙した。
そして、珍しく言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「あなたが、私と同じ場所に来ないようにするためです」
「……同じ場所?」
「声を聞いて、理解して、
それでも切り捨てる側」
久我の胸が、強く締めつけられる。
「あなたは、まだ選べる」
黒瀬は久我を見つめた。
「切るか、壊れるか。
どちらも、正しい」
久我は、立ち上がった。
これ以上、この部屋にいれば、自分の輪郭が曖昧になる。
「……君は、危険だ」
「ええ」
黒瀬は否定しなかった。
「でも、あなたほどではない」
久我は、何も言い返せなかった。
ドアに手をかけ、振り返らずに言う。
「次は、正式な取り調べだ」
「分かっています」
黒瀬は静かに頷く。
「でも、忘れないでください」
背後から声が届く。
「外であなたを縛っているものは、
この部屋にはありません」
ドアが閉まる。
久我は廊下に立ち尽くし、天井を見上げた。
白い蛍光灯が、無機質に並んでいる。
取り調べの外。
正義の外。
そして、黒瀬の視線の外。
――そのどこにも、
自分の居場所はないのだと、
久我は薄々、気づき始めていた。