遥は、もう一歩、前に出た。
靴底が、縁を越えた。
コンクリートの冷たさが、足裏から消える。
——あ。
その瞬間だった。
「……何してる」
声は、驚きも怒りもなかった。
ただ、そこに人がいるみたいな、低い声。
遥は振り向かなかった。
振り向いたら、戻れなくなる気がした。
「別に」
喉が、妙に乾いていた。
声は、思ったよりも、普通だった。
「別に、何も」
日下部は、数メートル離れたところで立ち止まった。
走り寄らなかった。
叫ばなかった。
それが、余計に、怖かった。
「……危ないだろ」
「落ちたら」
言葉が、途中で切れる。
続きを言わなかった。
遥の肩が、わずかに震えた。
「危なくない」
「どうせ」
そこまで言って、声が詰まった。
どうせ、の先が、見つからなかった。
日下部は、一歩、近づいた。
距離を測るみたいに、慎重に。
「戻れ」
命令みたいな言い方だった。
優しくも、突き放してもいない。
遥は、笑った。
小さく、壊れたみたいに。
「……戻る場所、ない」
その言葉が出た瞬間、
胸の奥で、何かが、崩れた。
「教室も」
「廊下も」
「俺が立つとさ、空気変わるんだよ」
日下部は、何も言わなかった。
ただ、また一歩、近づいた。
「いなくていいって」
「はっきり言われた」
「邪魔だって」
「なんでまだ来てるのって」
遥の声は、だんだん速くなった。
止め方が、わからなくなっていた。
「だったらさ」
「じゃあ、いなくなるしかないじゃん」
足が、完全に、縁を越えた。
次の瞬間。
日下部が、走った。
腕が伸びる。
迷いなく、遥の制服の背中を掴む。
「——っ!」
体が、引き戻される。
重心が、一気に崩れる。
遥は、抵抗しなかった。
力が、抜けたみたいに、そのまま引かれた。
二人は、地面に倒れ込んだ。
息が、荒くなる。
心臓が、うるさい。
日下部は、まだ、掴んだままだった。
離さない。
「離せ……」
声が、震えていた。
「離せよ……!」
遥は、初めて、振り向いた。
目が合う。
日下部の顔は、険しかった。
でも、怒ってはいなかった。
「離さない」
短い言葉。
「離したら」
一瞬、言葉を探すみたいに、間が空く。
「……お前、戻ってこないだろ」
その一言で。
遥の中で、何かが、完全に壊れた。
「戻りたいって……!」
声が、裏返る。
「俺が、いつ戻りたいって言った!?」
「戻れる場所、作ってくれたか!?」
「誰か、守ったか!?」
涙が、溢れた。
止まらなかった。
「耐えろって」
「黙れって」
「優しくしろって」
「全部やった!」
「全部やったのに!!」
日下部の手が、少しだけ、強くなる。
「……知らなかった」
ぽつりと、落ちる声。
その言葉が。
火に、油を注いだ。
「知らなかった!?」
遥は、笑いながら、泣いた。
「見てただろ!」
「毎日!」
「俺が消えてくの!」
「知らなかったで済むなら!」
呼吸が、乱れる。
言葉が、追いつかない。
「もう……」
「もう、無理なんだよ……」
日下部は、何も言わなかった。
ただ、遥を離さなかった。
それだけだった。
遥は、その腕の中で、
初めて、声を上げて泣いた。
——生きたいとも、
——死にたいとも、
言葉にできないまま。






