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妹の栞も大学への入学が決まった。そこは俺が通う大学と同じ街にあったから、俺たちは兄妹で一緒に住むことになった。
本当は別々の部屋を借りてほしい所だったが、両親曰く「家賃がもったいない」。しかし、それが建前であって、本心では栞を心配していることは分かっていた。
その大学には瑞月も通うことが決まっていた。大学受験を目指して、高校時代、とりわけ二年生になってからはますます力を入れて勉強を頑張っていた様子は、たまの帰省で会った時などに話を聞いて知っていた。その努力が実を結んだことをメッセージで知らせてきた時は、色んな意味で本当に嬉しかった。それを読み終えた後、直接顔を合わせていなくて良かったと思った。なぜなら、俺の顔は、人には見せられないくらいに笑み崩れていたはずだったから。
大学生になってからの俺は、実家に帰るのは年に数回ほどだった。例えばゴールデンウィーク、盆や正月といったまとまった休みの時に帰るくらいで、瑞月と会うのもその時だった。もっとゆっくり会って話をしたいと思っても、帰省すればしたで地元の友達が待ち構えていたりして、瑞月との時間を持つのはなかなか難しかった。
だから、瑞月がこの街に越してくる日を、俺は指折り数えて待っていた。近くに住むことになれば、以前ほどではないにしても、彼女に会える時間が増えるかもしれないと期待していた。
三月の最後の週になって、栞が引っ越してきた。なんやかんやと時折揉めながらも一緒に暮らし始め、大学の入学式も終わり、数週間ほど経ってからのことだ。
俺たちは改めて、自分たちの貧相な食事問題に直面していた。基本的にそれぞれが食べたい物を適当に買うか、適当に作るかしていたし、俺はもうこういう食生活には慣れていたから、さほど困っていなかった。だが、栞が音を上げたのだ。
「実家と瑞月の家のご飯が恋しすぎるよ。こんな食事ばっかりしてたら、体壊しちゃう。ねぇ、お兄ちゃんはこれまでいったいどうしてたのよ?」
「え?だからそれは、学食、コンビニ、適当に惣菜買ってとか。あとは、凛が割とよく遊びに来て飯を作ってくれてたからさ。そんな困るって程困ってなかった」
「凛ちゃん!そうか、その手があったか!」
料理が苦手と公言している栞がぱっと目を輝かせた。しかし俺は、栞の希望を奪うようなことを口にした。
「凛はさ、最近あんまり邪魔できないんだよな」
「どうしてよ」
「どうもさ、いい人ができたらしいんだよ」
「なるほどね……」
栞は軽く息を飲み、それから納得したような顔をして頬杖をついた。
「そういうことなら、頼ったりしたらダメだよね。えぇ、じゃあ、どうしようか……」
「俺は別に今のままでも問題ないぜ」
少しはお前が練習して作ってみれば――?
言葉が喉から出かかったが、急いでそれを飲み込む。ブーメランになって自分に飛んできたら大変だ。
「明るく楽しい大学生活が待っている!とか言って喜んでたけど、これはまさかの盲点だったなぁ」
栞はぶつぶつ言いながら、総菜のコロッケをつつく。
「コロッケかぁ。そう言えば、瑞月のコロッケも美味しかったよねぇ」
その名前を聞いて、俺は懐かしく思い出す。
「瑞月はお菓子作りも料理も、ほんと上手だったよな。そういえば、瑞月とはこっち来てから会ったのか?」
「メッセージはやり取りしてるけど、顔を合わせたのは引っ越し前だよ」
コロッケをごくりと飲み込んで、栞がにっと笑って俺を見た。
「あたし、今、ものすごくいいこと思いついちゃった」
「なんだよ、いいことって」
「あのね、瑞月にお願いしてみない?うちらにご飯作って、って」
「おまえ、それはいくらなんでも……」
さすがに図々しいんじゃないかと、俺は眉根を寄せて妹を見た。
「それだけの理由で思いついたわけじゃないよ。瑞月は一人暮らしでしょ?心細いんじゃないか、って思うんだよ。だからさ、時々ここで一緒にご飯食べたりしたら、寂しくないかなって思うの」
「なるほどな」
俺は栞の言葉に頷いた。
「確かに、それはあるかもな」
瑞月に会える正当な理由ができたことを、心の中で密かに喜んだ。気を付けないと頬が緩んでしまいそうだ。
「でしょ?だからさ、誘ってみてもいいよね?」
栞が確認するように言った。
俺と一緒に住むとなった時に決めた、あるルールを意識して言っているのが分かった。それは、この部屋には身内と共通の友人以外は入れない、というルールだ。異性を連れ込むようなことはまずないだろうと互いに分かってはいたが、余計なもめ事が起きるのを少しでも減らすために作ったルールだった。
だから、俺たちの身内同然で共通の友人でもある瑞月は、当然大歓迎の存在だ。
「もちろんだ。お前が言うように、こうやって俺たちとよく会っているってことになれば、おばさんたちはもっと安心するかもしれない」
言いながら俺は、瑞月が一人暮らしをすることになった時のちょっとした騒動を思い出していた。
「だよね?よし、早速瑞月に連絡しなくちゃ!ね、その時はさ、食材費とかは全部うち持ちってことでいいよね」
「それは当然だろ。お願いするんだから。凛が作りに来てくれた時にもそうしてたぜ」
「決まりだね。あとは、瑞月が『うん』って言ってくれたらいいんだけど」
「そうだな」
ワクワクした様子の栞に笑いながら、俺も大きく頷いた。
瑞月に会ったのは、この前の正月だ。あの時はまだ高校生で化粧っ気のないつるりとした顔をしていたが、大学生になった瑞月はどんな姿をしているのだろう。変わっていないだろうか、それとも、などと今の彼女を想像して、どきどきした。
瑞月が俺たちのわがままを引き受けてくれたと栞から聞いたのは、その数日後だった。仕事の早い栞は、早速約束を取り付けたらしく、この週末から瑞月が遊びに来ることになったという。
俺は落ち着かない気分で、その日を待っていた。
「そろそろかな」
夕べ寝るのが遅くなってしまい、うっかり昼寝をしてしまった。
ひとまず顔を洗い、夕べそり損ねたひげを剃ってさっぱりする。何を着ようかとしばし迷い、結局スウェットのルームウェアにする。変にきっちりした格好でいるのは、まるで気合いでも入っているようで気恥ずかしい。
栞が瑞月と帰って来るのはもう間もなくだろう。置時計をちらちら見て、俺はそわそわと用もなくリビングをうろついていた。
玄関でドアが開く音がした。
来たか――。
つい小走りになりかけたことに気がつき、俺は自分に苦笑する。気を取り直し、あえてゆっくりとした足取りで玄関まで出て行く。
半年ぶりくらいに会う瑞月を見た途端、俺の鼓動は弾けた。
きれいになった、と思った。整えられた眉に少し大人びた印象を受ける。ふっくらとした唇は淡いピンク色に色づいていた。
食べたくなるような唇だ……。
ついそんな馬鹿なことを考えてしまい、慌ててその煩悩を払いのける。
「久しぶりだな。元気だったか?」
手を伸ばして触れたい衝動を抑え込みながら、俺は言った。にこっと笑って挨拶をする瑞月を見たら、口元が緩んだ。しかし次の栞の言葉で、一気に冷静になった。
「今日は瑞月、うちに泊まるからね。間違っても変な気を起こさないでよ」
内心でひどく焦った。
聞いてないぞ――。
しかしその動揺を顔に出さないよう、俺はあえて顔をしかめてみせた。内心では、栞のくだらない心配にイラッとする。妹の言う変な気を起こして、万が一にも瑞月に嫌われることにはなりたくないのだから、そんなのは余計な心配だ。
食事の後に栞が風呂に行っている間、瑞月と二人きりになって俺は緊張した。自分の気持ちを瑞月に悟られないようにと注意を払った。けれど、瑞月に好きな人ができたりはしていないかを、ちゃっかりと探る。
好きな人がいないのならばと、欲のようなものが生まれた。少しくらいは俺を男として意識してはくれないだろうかと、ふと思う。
すごく綺麗になった、などと言い慣れない言葉を口にしてみた。触れたい気持ちに抗えなくて、せめてこれくらいと自分に言い訳しながら、昔よくやったように瑞月の頭を撫でてみた。
それくらいのことで、瑞月が簡単に意識してくれるとは思っていなかったけれど、案の定の反応に俺はがっかりした。
俺はまだ、瑞月にとっては幼馴染のお兄ちゃんらしい……。
瑞月が風呂から上がった栞と入れ違いにリビングを出て行く。
俺はその背中を苦々しい思いで見送った。
コメント
1件
思いはなかなか通じないね😢