テラーノベル
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栞から食事作りをお願いされた時は「たまに」という話だった。しかし結局は、毎週のように頻繁に二人と一緒に夕食を取るようになり、週末には当たり前のように栞の部屋に泊まるようになっていた。
その日も前もって約束していた通り、夕方の六時過ぎに彼らの部屋に着いた。今日は泊まらないで帰るから荷物は少ない。ドアチャイムを押して玄関が開くのを待つ。いつもであれば、ほとんど待つことなく栞か諒が顔を出すのだが、なかなかその様子がない。
「今日、って言ってたはずだけど、聞き間違えたかな」
首を捻りながらもう一度ドアチャイムを鳴らしてみる。しばらくして、ようやくロックをはずす音が聞こえた。扉が開いて、諒が顔を出す。
「諒ちゃん、こんばんは」
「待たせて悪かったな。……あのさ、ちょっとだけ待っててくれる?」
その顔には珍しく動揺の色が浮かんでいる。何かあったのかと眉をひそめた時、フローラル系の甘い香りが鼻先を撫でた。この部屋では今まで嗅いだことのない匂いだ。ルームフレグランスなのか香水なのか、はっきりとは分からない。ただ、栞の好みの香りではない。訝しんだところで頭にぱっと浮かんだのは、もしやという思いだった。
女の人――?
私は諒の表情をうかがいながら、そっと口を開く。
「もしかしてお客さん?私、帰ろうか?」
「いや、客とかそういうのじゃないから」
やや慌て気味に、諒は否定の言葉を口にした。
廊下の奥から女性の声が聞こえてきたのはその時だ。
「久保田君、その人は妹さんなの?」
私は弾かれたように顔を上げた。目に飛び込んできたのは、まぶしい黄色。それは派手な柄のワンピースの色で、着ていたのは髪の長い女性だった。
この状況は、いったいどういうことなの――。
私はごくりと生唾を飲んだ。近づいてくる女性と諒の顔を交互に見比べる。
諒は私を背にかばうように立った。
「誰だっていいでしょう?とにかく帰ってください。話は終わったんですから」
初めて聞く冷ややかな諒の声だった。言われているのは自分ではないのに緊張する。
「気になるわ。まさかあなたの彼女?」
その言葉に私は思わず反応してしまう。
「違いますっ!」
諒が私を軽く睨んだように見えた。一瞬怯んだものの、私は心の中でつぶやく。
だって、本当のことでしょ?
「ふぅん……」
彼女は小首を傾げながら、私たちがいる玄関の方へゆっくりと歩いてきた。値踏みするような目つきで私を見下ろす。
ふふんと鼻で嗤われたような気がして、私は眉根を寄せた。
黙ったままの諒はと見ると、やはり不機嫌な顔つきをしている。
彼女はゆっくりと繊細な形のヒールに足を入れて立った。それから急に体の向きを変えて爪先立ったと思ったら、諒の頬にいきなりキスをした。
驚いて声を上げそうになった私は、慌てて口元を手で覆った。
諒は目を見開き、驚くほどの素早い動作で彼女から離れて、心底嫌そうに顔を背けた。手の甲で頬をぐいっと拭い、腹立ちを隠そうとしないひどく苛立った口調で言った。
「やめてください。不愉快だし迷惑だ。早く帰ってください。何度も言いますけど、あなたの気持ちを受け入れるつもりはまったくありません。俺にはもう関わらないでくれと、いったい何度言ったら理解してくれるんですか」
「私はあなたが好きなの。きっと振り向かせてみせるんだから」
諒の顔には怒りがにじんでいた。
しかし彼女がそのことに怖気づいた様子はない。くすりと笑い、私の前を通り抜ける。
「じゃあね、久保田君のお知り合いさん」
彼女の目の中に、挑戦的な光が揺れたように感じた。
私は唖然としたまま、彼女のまぶしい色合いの後ろ姿を見送った。
「……変な所、見せてしまったな」
諒は気まずそうに私に声をかけた。
はっとした私は、ぎくしゃくとした動きで体の向きを変える。
「今の人、何?」
諒は不快そうに顔を歪ませて、深々と息を吐き出した。
「付きまとわれて困ってるんだ。とにかく、中に入って。栞もそろそろ帰ってくるはずだから。まったく、あいつが帰ってくる前でよかったよ。でなきゃ、もっと面倒なことになってた」
諒はぶつぶつとぼやいている。
彼の背中を見ながら私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。入ったそこには、今の女性がまとっていたと思われる香りが残っている。先程の様々な場面を思い出して不愉快な気分になる。
「付きまとわれていたのに、部屋に入れたんだ」
「誤解するなよ。お前か栞だと思って、確認しないでうっかりドアを開けてしまったんだ。そうしたら、止めるのも聞かないで勝手に部屋に上がり込んでしまって……」
疲れた声で諒は言う。
私は慌てて謝った。
「ごめんなさい。彼女でも何でもないただの幼馴染のくせに、変なこと言っちゃった」
「いや、いいよ」
諒は苦笑いを浮かべ、話し出す。
「この前、数合わせで行った合コンで会った人なんだ。連絡先を交換したいとか、今度二人で会いたいとか言って、しつこかったんだ。だけど、あの人に興味はないから、その度に何度もはっきりと断った。でも最近になって、俺の通う大学にまで来るようになってさ。その都度友達に協力してもらって撒いたりしてたんだけど、どうやってかここの住所を調べたみたいで……」
「え、何それ、怖い……。それでとうとう今日、いきなり訪ねて来たわけ?」
「そういうこと。驚かせて悪かったな。嫌な気分になったよな」
「それは大丈夫だけど……。帰る時にあの人、諦めないみたいなこと言っていたよね。振り向かせてみせるとかなんとかって」
諒はため息をつく。
「そんなもの、断る一択しかないよ」
「いずれにしても、栞も一緒に住んでいるわけだから、早く解決した方がいいよ」
「分かってる。……でも、栞には今のこと、内緒にしておいてくれないか」
「一応は話しておいた方がいいんじゃないの?それに隠したとしても、すぐにばれちゃうんじゃないかしら」
「瑞月が黙っていてくれれば大丈夫だよ。心配かけたくないんだ。それに実はさ、栞と取り決めしてあるんだ。この部屋には自分たち以外は誰も入れないこと、って。もちろん身内とか共通の友達は別だけど」
「そうなの?私、普通にここに来てるんだけど、良かったのかしら」
「身内と共通の友達は別って言っただろ。瑞月は俺たちの共通の幼馴染で、かつ、身内も同然なんだから、いいんだよ」
「それならいいけど……。本当は迷惑だと思われていたらどうしようって思っちゃった」
「そんなわけないだろ。来てほしいって言ってるのは、俺たちの方なんだから」
諒の言葉に頬が自然に緩む。二人にとって特別だと言われたようで嬉しい。
「とにかく……」
私は窓の方へ足を向ける。
「いったん空気を入れ替えよう。栞に気づかれたくないなら、早くこの匂いを逃がさなきゃ」
「そうだな。――そう言えばお前たちは、こういうの、つけてないんだな」
「栞は似合いそうだけどね。私はもっと大人にならないと、こういうのは似合わなさそう。だから手は出さないの」
「ふぅん。それじゃあ、瑞月がこういう香りをつけるようになったら、それは大人になった時ってことか」
まるで分析でもするかのように諒はまじめな口調で言いながら、私と一緒になって部屋中の窓をがらがらと開け放った。
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