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白山小梅
76
栞から食事作りをお願いされた時の話では、「たまに」ということだった。けれど結局、毎週のように二人と共に夕食を取るようになり、週末には当たり前のように栞の部屋に泊まるようになった。
その日も前もって約束していた通り、夕方の六時過ぎに彼らの部屋に着いた。今日は泊まらないで帰るから荷物は少ない。ドアチャイムを押して玄関が開くのを待つ。いつもであれば、さほど待つことなく栞か諒が顔を出すのだが、なぜか今日はなかなかドアが開かない。
「今日も約束していたはずだけど、違ったかな」
首を捻りながら、もう一度ドアチャイムを鳴らした。しばらくして、ロックをはずす音が聞こえ、開いたドアから諒が顔を出した。
「諒ちゃん、こんばんは」
「待たせて悪かったな。……あのさ、ちょっとだけ待っててくれる?」
その顔には珍しく動揺の色が浮かんでいた。
何かあったのかしらと眉をひそめた時、鼻先にフローラル系の甘い香りを感じた。今までこの部屋では嗅いだことのない匂いだ。ルームフレグランスなのか香水なのか、はっきりとは分からないが、明らかに栞の好みの香りではない。怪訝に思い、次の瞬間には、もしかして、とその香りの原因に思い至る。
女の人が来ているのかしら――?
私は諒の表情をうかがいながら、そっと訊ねる。
「もしかしてお客さん?私、帰ろうか?」
「いや、客とかそういうのじゃないから」
諒は慌て気味に否定の言葉を口にした。
廊下の奥から女性の声が聞こえてきたのはその時だ。
「久保田君、その人は妹さんなの?」
諒の向こうに見えたのは、まぶしい黄色地に派手な柄のワンピースを着た、髪の長い女性だった。
この状況はいったいどういうことなのかと、私はごくりと生唾を飲み、派手な女性と諒の顔を交互に見た。
諒は私をかばうように隣に立ち、彼女に告げる。
「誰だっていいでしょう?とにかく帰ってください。話は終わったんですから」
諒の声は冷ややかだった。初めて耳にするその冷たさに、自分が言われているわけではないのに背筋がひやりとした。
「気になるわ。まさかあなたの彼女?」
女性の言葉に私は思わず反応し、反論する。
「違いますっ!」
なぜか諒は私を軽く睨んだ。その視線に怯みながら、本当のことを言っただけなのに、と私は心の中でつぶやく。
彼女は、私たちがいる玄関の方へゆっくりと近づいてきた。値踏みでもするような目つきで私を見下ろし、鼻でふふんと嗤ってから、繊細な形のヒールにゆっくりと足を入れた。そのまま外に出て行くのかと思いきや、いきなり体の向きを変えて爪先立ち、諒の頬にキスをした。
思いがけない場面を目の当たりにして、私は驚き、口元を両手で覆った。
キスをされた当の本人は、素早い身のこなしですぐさま彼女から離れた。心底嫌そうに顔を背け、手の甲で頬をぐいっと拭う。腹立ちを隠しもしない苛立った口調で彼女に言う。
「さっさと帰ってください。不愉快だし、迷惑だ。何度だって言いますが、あなたの気持ちを受け入れるつもりなんて、これっぽっちもないんです。いい加減、もう理解してください」
「だって、私、あなたが好きなんですもの。だから、絶対に振り向かせてみせるわ」
「だから!」
諒の顔に浮かぶ怒りの表情に怖気づいた様子もなく、彼女はくすっと笑いながら私の前を通り抜ける。不意に足を止めて私を見たが、その目にはなぜか挑戦的な光が揺れていた。
「じゃあね、久保田君のお知り合いさん」
こうしてようやく彼女は去って行った。
まるで毒気にでも当てられたかのように、私はしばらく呆然としていたが、諒に声をかけられて我に返る。
彼は気まずい顔をしていた。
「……変な所、見せてしまったな」
「今の人、何?」
訊ねる私に、諒は不快そうに顔を歪ませる。
「付きまとわれて困ってるんだ。とにかく、中に入って。栞もそろそろ帰ってくるはずだ。まったく、あいつがいない時でよかった。でなきゃ、もっと面倒なことになってたかも」
ぶつぶつとぼやきながら、諒は玄関のドアを閉めた。
廊下の奥へと歩いて行く彼の背中を見ながら靴を脱ぎ、私もまたリビングへと向かう。
部屋に入ってすぐ、私は顔をしかめた。先程の女性がまとっていたのと同じ香りが残っている。先程の彼女の態度や目つきを思い出して不愉快な気分になる。
「付きまとわれていたくせに、普通に部屋に入れたんだ」
「誤解するなよ。お前か栞だと思って、確認しないでうっかりドアを開けてしまったんだよ。そしたら、あの人、俺が止めるのも聞かないで、勝手に部屋に上がり込んでしまってさ……」
諒はため息をつき、疲れた声で言った。
彼女でも何でもないのに、彼を責めるようなことを言ってしまったと反省し、私は慌てて謝る。
「ごめんなさい。変な言い方して……」
「いや、いいよ」
諒は苦笑を浮かべて話し出す。
「この前、数合わせで行った合コンで会った人でさ。連絡先を交換したいとか、今度二人で会いたいとか言って、しつこかったんだ。だけど俺はあの人にまったく興味がないから、何度もはっきり断った。ところが最近になって、俺の大学にまで現れるようになったんだよ。その度毎に、友達に協力してもらってあの人を撒いたりしてたんだけど、どうやってかここの住所を調べたみたいで」
「えっ!何それ、怖いんだけど……。それで、とうとう今日、いきなり訪ねて来たっていうこと?」
「そういうこと。それにしても、悪かったな。嫌な気分になっただろ」
「まぁ、ね。でも、私は大丈夫。それよりも、あの人、帰る時に、諒ちゃんのことは諦めない、みたいなこと言っていたよね。絶対に振り向かせてみせる、とかなんとか」
「俺があの人を好きになるなんて、絶対にあり得ない」
「いずれにしても、栞も一緒に住んでいるわけだし、あの人のことは早く解決した方がいいと思うよ」
「分かってる。……あのさ、栞には今のこと、内緒にしておいてくれないか?」
「え?でも、一応は話しておいた方がいいんじゃないの?第一、隠したとしても、すぐにばれちゃうんじゃない?」
「瑞月が黙っていてくれれば大丈夫だよ。心配かけたくないし、こんな話、身内に知られるのは恥ずかしいんだよ」
私は考え込む。
「気持ちは分からないでもないけど……。じゃあ、早く何とかしてね。今日の私みたいに、栞まで巻き込まれたりしたら、可哀そうだから」
「可哀そうというよりは、万が一そんなことになったら、栞の場合は火に油を注ぎかねないからな。なんとかする」
「だったら、当面は黙っとく」
「頼む」
諒のほっとした顔を見て、私は苦笑する。
「とにかく」
私は窓の方へと足を向けた。
「いったん空気を入れ替えようよ。早くこの匂いを逃がさないと、栞に気づかれちゃうよ」
「そうだな。――そう言えば、お前たちは、こういうのって、つけてないんだな」
「こういうのって、香水のこと?そうだね、栞も私も使ってないなぁ。栞は爽やかな香りが似合いそう。でも私には、まだまだこういうのは早いかな。使うのは、もっと大人になってから、かな」
「ふぅん。大人になったら、ね。で、瑞月はいつ大人になるんだ?」
「そうねぇ……。社会に出たら、おのずと大人になるんじゃない?」
「なるほどね」
諒はくすっと笑い、私と一緒に部屋中の窓をがらがらと開け放った。
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