テラーノベル
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本番当日の朝は、静かすぎるほど静かに始まった。
皆がそれぞれの持ち場へ散り、シェルターの中には準備の音だけが満ちている。紙をめくる音。工具が触れ合う音。布がこすれる音。いつもならそれに押されて体が勝手に動き出すのに、今日のサベリオは何度も手を止めた。
怖かった。
失敗するのが怖いのではない。
今夜が終わって、もし本当に朝へ進んだら、もうやり直しはきかない。その当たり前のことが、今さらどうしようもなく恐ろしかった。
何度も戻ったせいで、失うことと同じくらい、戻れなくなることもまた怖くなっている。
橋の入口側で提灯の紐を結び直している時、指が思うように動かなくなった。固く結ぶだけの作業なのに、妙に視界が揺れる。
「サベリオ」
振り向くと、デシアが立っていた。録音機を胸に抱えている。
「ちょっと休んで」
「平気」
「平気な人の顔じゃない」
その言い方が前にもあった気がして、サベリオは笑おうとした。けれど笑う前に、頬へ何かあたたかいものが落ちた。
自分で泣いていると気づくのに、数秒かかった。
デシアは驚かなかった。ただ一歩近づいて、提灯の下の影へサベリオを引っぱる。
「怖いんでしょ」
ごまかす気力がなかった。
「うん」
やっとそれだけ言う。
「また失うのが?」
「それもある」
「じゃあ、終わるのが?」
図星で、サベリオは目を閉じた。
終わってほしかったはずなのに、終わると決まった途端に、ここまで連れてきた失敗も痛みも全部が遠くなる気がして怖い。戻れなくなるのが、なぜか少し寂しい。
そんな勝手な感情を、口にする資格があるのか分からなかった。
デシアはしばらく黙っていたが、やがて録音機を脇に置き、そっとサベリオの手を握った。
冷えていた指先へ、彼女の体温がまっすぐ移ってくる。
「今までは、あなたが先に私を支えてた」
デシアが静かに言う。
「今日は私がやる」
サベリオは目を開ける。
「やり直しがなくなるのは怖いよ」
彼女は手を離さないまま続けた。
「でも、それって次があるってことだから」
橋の下で川が鳴る。
「もし朝へ進めたら、失敗を忘れるんじゃなくて、持っていけばいい。戻れないなら、戻らなくても立っていられる形にすればいい」
その言葉は、彼女自身が町を出ることへの答えでもある気がした。
サベリオは握られた手を少しだけ握り返す。
「支えられる側って、こんなに落ち着かないんだ」
「今さら?」
「今さら」
デシアが笑った。
その笑顔を見ているうちに、胸を締めていた固いものが少しずつほどけていく。怖さは消えない。でも、怖いまま進んでもいいのかもしれないと思えた。
提灯の向こうで、ヌバーが遠慮のない声を飛ばした。
「お二人さーん、しんみりは後でもできますけどー」
デシアが吹き出し、サベリオもようやく普通に笑えた。
手が離れる直前、彼女が小さく言う。
「今夜、ちゃんと朝まで行こう」
サベリオはうなずく。
頬を伝った涙は、怖さのせいだけではなかった。
ようやく、誰かに支えてもらえるところまで来たのだと、体が先に理解していたのだ。
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