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報告書を提出してから、三日が経った。
久我の机には、誰も近づかなくなった。
露骨な無視ではない。
ただ、必要最低限の会話だけが、形式的に交わされる。
――線を踏んだ人間の扱いだ。
上層部は何も言わない。
だが、それが答えだった。
その日の夕方、久我は取り調べ室に呼ばれた。
正式な聴取ではない。
記録も、立会いもない。
“久我だから”許された時間。
黒瀬は、いつもより姿勢を崩して座っていた。
手錠はあるが、背もたれに体重を預けている。
「……久我さん」
その呼び方が、少し変わった。
確認するような響きがない。
「報告書、出しましたね」
「ああ」
「書き換えましたか」
久我は、一瞬だけ黙った。
「……完全には」
黒瀬は、小さく息を吐いた。
「それで十分です」
「君は」
久我は、言葉を選びながら続ける。
「これで、何もかも背負うことになる」
「ええ」
「それでも、平気なのか」
黒瀬は、久我を見つめた。
「平気ではありません」
初めて、はっきりと否定した。
「ただ……」
少し間を置いて、続ける。
「あなたが、一人で背負うよりは」
久我は、喉が詰まるのを感じた。
「……君は、なぜそこまで」
「理由が必要ですか」
「必要だ」
黒瀬は、少し考える素振りを見せた。
「あなたは、
私を“理解できる側”に置いた」
「……」
「それは、
あなたが理解される側に立つことでもあった」
久我は、視線を逸らす。
「私は……正しいことをしたとは思っていない」
「知っています」
黒瀬は、静かに頷く。
「だから、話せます」
久我は、顔を上げた。
「話す?」
「本音です」
その言葉に、久我の胸がざわつく。
「他の誰にも、
私は話しません」
「……なぜ」
「あなたは、
聞いても“利用しない”から」
久我は、苦く笑った。
「そんな保証はない」
「あります」
黒瀬は即答した。
「あなたは、
自分が壊れることを恐れる」
「……」
「だから、
私を壊し切ることはできない」
久我は、思わず目を伏せた。
「それは……信頼か」
「依存です」
黒瀬は、はっきりと言った。
その言葉が、
予想以上に重く響く。
「私は、
あなたにだけ、
自分の恐怖を話せる」
久我は、指先が冷たくなるのを感じた。
「それは……危険だ」
「ええ」
黒瀬は、わずかに笑った。
「だから、あなたに渡します」
「……何を」
「主導権を」
久我は、息を呑んだ。
「私の沈黙も、
選択も、
恐怖も」
黒瀬は、静かに続ける。
「あなたが、
壊さないと知っている人にしか、
預けられない」
久我は、立ち上がりかけて、止まった。
「……それは、
私を縛ることになる」
「ええ」
黒瀬は否定しない。
「でも、もう縛られています」
久我は、何も言えなかった。
「久我さん」
黒瀬が、低く呼ぶ。
「あなたが、
私を見捨てられないことを、
私は知っている」
その言葉は、脅しではなかった。
確認だった。
「だから、
私はあなたを信じる」
久我は、目を閉じた。
これは救いではない。
契約でもない。
――寄りかかりだ。
それも、
片方が崩れれば、
もう片方も確実に倒れる形の。
「……今日は、終わりだ」
「はい」
黒瀬は、穏やかに頷いた。
部屋を出るとき、
久我ははっきりと分かっていた。
黒瀬は、
自分に依存している。
そして同時に、
自分もまた、
この男の沈黙に依存し始めていることを。
取り調べ室の扉が閉まる音は、
もはや“檻”の音ではなかった。
――それは、
互いに支え合うことでしか
立っていられない者同士が、
同じ場所に縛られた音だった。