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日下部は、校門の灯りの下で立ち尽くしたまま、ひと息つく。胸の奥のざわめきが収まらない。昨日からの沈黙と、颯馬の言葉が重くのしかかっている。
「守る」と言いながら、守れない――その矛盾が、まるで心を切り裂く鋭利な破片になっていた。
足は無意識に、あの家の方へ向かっていた。いつもならためらうはずの距離が、今日は一歩一歩短くなる。
家の前に差し掛かると、ポストの影に小さな影が見えた。颯馬だ。薄暗い夜気に金色のイヤーカフが冷たく光る。中学生らしい細い身体、でも顔には余裕がある。笑っている──生意気な、よく知った笑い方。
颯馬はこちらを見て、ゆっくりと歩み寄る。歩幅が一定で、先に何をするか計算しているような足取りだ。日下部は手に力を込め、拳を固く握る。だが、なぜかその拳が力を持たない。握るほどに、自分の無力さが露になるようで、指先は震えた。
「何してるってさ、兄弟の時間だよ。家族ごっこってやつ」
颯馬は皮肉を含んだ調子でそう言い、舌先で歯の奥をこする。笑いは挑発的で、空気を切る冷たさがあった。
日下部は一歩も引かない。声は低く、たぎるが抑えられた怒りを含ませる。
「遥に何してるんだ。家で何やってんだ、答えろ」
颯馬は肩をすくめ、眉を片方だけ上げる。
「ああ? お前、そんなこと聞いちゃうの? 怜央菜も言ってたぜ。『お前、優しすぎる』って」
その言葉は囁きじゃなく、あざ笑うように放たれた。颯馬の目がぎらつく。彼にとって“優しい”とは、腹の底で嗤うための材料に過ぎないらしい。
「優しい奴って、見ててムカつくんだよな。結局、何もできねぇくせに」
言葉の刃が、確実に日下部の胸を削る。日下部は拳の中で血を押し殺す感覚を覚えた。殴り返したい、本気で怒鳴りたい。だがそれをやれば──颯馬の思う壊し方に嵌るのではないか。そんな恐怖が、彼の動きを止める。
颯馬はさらに一歩詰め、顔を近づける。顔の表情は子ども染みているのに、その目は老獪で、軽蔑を湛えていた。
「殴れよ。そしたら、あいつ、また泣くぞ。俺が守ってやったって顔すんの、笑えるんだ」
空気が凍るような一言。颯馬は日下部の反応を楽しんでいる。それが最も耐え難い。
拳を握りしめた日下部の手が、一瞬だけ硬くなり、そして震えた。顔は引きつる。殴ることで遥に更なる傷を与える可能性が、頭を過る。だが殴らないことで、今この場で自分が無力であることが明白になる。それもまた耐えがたい。どちらを選んでも、痛みが待っている。
颯馬はその一瞬の動揺を逃さず、薄く笑った。
「な? 何もできねぇくせに、正義ぶってるんだよ。腹立つわ」
そして、さらに屈折した優越感を込めて耳元で囁いた。
「もし次、あいつに近づいたら――お前の目の前で、壊してやる」
その言葉は、刃よりも冷たい。日下部の視界が歪む。
すぐ後ろで、家の灯りがこぼれる。颯馬は背を向け、階段を軽やかに降りていく。足音が一段一段、夜の静寂を抉るように響いた。
日下部はその背中を見送ることしかできなかった。拳を壁に叩きつけた。鈍い音がした。痛みが走り、皮膚の下に冷たい花火が散るような感覚が走る。だが痛みは、彼を現実に引き戻すどころか、虚無を深めるだけだった。身体の端で感じるのは、血の温度すらない無感覚。
壁を殴った手を下ろすと、そこには小さな擦り傷ができていた。鮮血が滲んでいるわけではない。だがそれでも、日下部はその痛みを指で確かめる。痛みは実在の証であり、無力さの証でもあった。
振り向くと、玄関の扉の隙間から、遥の影がちらりと見えた。彼はこちらを見ない。目を合わせないようにして、足早に家の中へ消えていく。その背中には首元の跡が、淡く見えた。夜の灯りはそれを薄く浮かび上がらせ、まるでそこに“所在”を示すかのようだった。
日下部は一人、青白い息を吐いた。颯馬の言葉が、頭の中で回る。
「お前の目の前で、壊してやる」
——それは単なる脅しではなく、既成事実の宣言だ。颯馬にとって、破壊はゲームであり、観客の前で行うショーだ。想像しただけで胃の奥がひきつる。
だが、拳を握る手にもう一度力を込める。痛みと無力さを噛みしめ、それを糧にするしかない、と思った。今はただ、できることを探す。殴ることではなく、助けるための方法を、いつか見つけるために──。