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日が落ちきる前、祭りの最後の大きな語りは、花屋「花は散らない」の前で行われることになっていた。
即席の台は高くない。花屋の軒先に板を渡し、両脇へ花を置いた、小さな場だ。けれどハヤにとっては、山より高く見えた。
「長くなくていい」
オブラスが言う。
「でも短すぎるのも困ります」
ジョンナが言う。
「要するに、ちゃんとやれということだね」
ノイシュタットがまとめ、全員に睨まれた。
ハヤは甘い名札を指で押さえた。紙なのに、今日はやけに重い。
呼ばれて前へ出ると、朝から祭りを歩いてきた人たちの顔がこちらを向いた。観光客、商店街の人、町の年配者、子ども、白群の担当者までいる。笑ってくれた人たちの前で、今度は自分が話す番だ。
喉が乾く。
それでも、逃げる足はもう出なかった。
「花屋で働いている、ハヤです」
最初に名を言う。
それだけで、胸の中の空気が少し整った。
「私は、ずっと前へ出るのが苦手でした。店にいても、名前を言わなくて済むなら、その方が楽だと思っていました」
観客は静かに聞いている。
「でも、この店で花を渡していると、花だけじゃ足りない時があります。見舞いの花、仲直りの花、帰ってきた人に渡す花。そういう時、人は花を受け取るだけじゃなくて、言葉や名前も受け取っているんだと、この数か月で知りました」
風が一度だけ花を揺らした。
ハヤは、母の手帳に書かれていた言葉を思い出す。
消えるように生きてほしくない。
「私の母は、この店でよく『手から渡した花は、記憶の中では散らない』と言っていたそうです。私は、その意味をずっと分からないまま働いていました」
声が少し震えた。
けれど、止まらない。
「今日、真柄蒼司さんの名前がこの町へ戻りました。忘れられていた名前が、戻ってきました。たぶん、花屋も同じです。花はきれいに咲くだけじゃなく、誰かの記憶へ渡っていく。その時に名前があると、ちゃんと届く」
通りの端で、澄江が静かに立っている。
アンネロスは腕を組み、エフチキアは泣きそうな顔で笑っていた。
「私は、無名のままでいたかったです。呼ばれなければ、傷つかないから。でも、それだと届かないものがあると分かりました」
ハヤは一度だけ息を吸い直し、まっすぐ前を見た。
「この花屋は、花を売るだけの店ではありません。名前と記憶を渡す店です」
その言葉は、思っていたより静かに落ちた。
けれど通りの奥まで、きちんと届いた気がした。
「花は散らない。覚えていてくれる人がいるなら」
言い終えた瞬間、自分で驚くほど静かな気持ちになった。
拍手はすぐには起きなかった。誰もが一度、自分の中で受け取ってから、ゆっくり手を打ちはじめたからだ。
その拍手の中で、ハヤは初めて、前に立ってよかったと思った。
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