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祭りの締めへ向かう支度が始まり、提灯の灯りが少し濃く見えはじめた頃、ハヤは花屋の裏口へ一度だけ戻った。追加の花包みを取るためだ。通りの熱気から外れたそこは、驚くほど静かだった。
裏口の脇で、ノイシュタットが立っていた。
珍しく、軽口を用意していない顔をしている。
「……取るもの、これだけ?」
彼が言う。
「そうですけど」
「なら、少しだけ時間をもらえるかな」
その声音だけで、ハヤは朝から胸の中へ引っかかっていた一文を思い出した。
今夜、ちゃんと名前を呼びます。
逃げ道は、ある。
花包みを持ってすぐ戻ればいい。人手が必要だと言えば、それで済む。
けれどハヤは動かなかった。
裏口の灯りは弱い。店の中から漏れる花の匂いと、遠くの笑い声だけがここまで届く。
ノイシュタットは一度、視線を外した。彼が言葉を選び損ねるところを、ハヤは初めて見たかもしれない。
「君が前に出るなら」
やがて彼は言った。
「僕は横で働く。演出家としてではなく、生活する人間として」
ハヤは黙って聞く。
「最初は、面白いと思ったんだ。花屋が町の入口になるなんて、出来すぎていると思った。僕の悪い癖だ。きれいな話に飛びつく」
彼は苦く笑う。
「でも今は違う。君が名札をつける日の手つきも、鉢を持つ時の重心も、数字が怖いのに逃げない顔も、そういうのを横で見ていたい」
派手な言い回しは、半分だけ残っていた。
残り半分は、驚くほどまっすぐだった。
「ハヤ」
名前を呼ばれる。
ちゃんと、まっすぐ。
「君が前へ出るその隣で、僕も働きたい。できれば、ずっと」
言い終えると、ノイシュタットは笑わなかった。照れ隠しも、冗談も挟まない。ただ返事を待つ人の顔だった。
ハヤの胸の中で、何かがゆっくり音を立てる。怖さはある。けれど嫌ではない。嫌ではないどころか、長い坂をようやく同じ歩幅で上ってきた人を見つけたような気持ちがした。
花屋の表から、ドゥシャンの声が飛ぶ。
「ノイシュタットー! おまえどこだー!」
間の悪い声に、二人ともつい笑ってしまう。
それでも、今の言葉は薄まらなかった。
祭りのいちばん賑やかな日、いちばん静かな裏口で、ノイシュタットは逃げずに告げた。