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2026年7月19日、霧守町の守森神社は、夏祭りの灯りで石段まで飴色に見えていた。花屋「花は散らない」から手伝いに出ていたハヤは、浴衣の裾を気にしながら、線香花火の燃えかすを小さな塵取りへ集めていた。
境内の賑わいは少しずつ遠のき、笑い声のあいだに、山から降りてくる夜風の涼しさが混じり始めている。屋台の赤提灯が一つ消え、また一つ消えるたび、祭りが終わっていく匂いがした。
石段の端に、鈍い光が落ちていた。
最初は十円玉かと思った。しゃがんで拾い上げると、それは煤けた真鍮の鍵だった。頭の部分に、擦れて薄くなった刻印がある。指で汚れをぬぐると、「M-27」という文字が浮かび上がった。
「……何、これ」
独り言は夜に吸われた。落とし物なら社務所へ渡せばいい。そう思ったのに、なぜかすぐに足が動かなかった。手の中にある鍵は、夏の夜に似合わないほど冷たく、不思議な重みがあった。
背後から、やたらと整った靴音がした。
「その沈黙は良いね。拾った瞬間、人生が少しだけ面倒になる音がする」
振り向かなくても分かった。ノイシュタットだ。祭りの呼び込みを勝手に手伝い、勝手に商店街の人と打ち解け、勝手にやりすぎて怒られていた男である。白いシャツの袖を無駄にきれいにまくり、片手には売上帳を持っている。
「落とし物です」
「ただの落とし物にしては、君の顔が面白すぎる」
「返します」
「その前に見せて。僕は面倒ごとの鑑定だけは早い」
差し出す気はなかったのに、彼はもう覗き込んでいた。
「M-27……ああ。たしか商店街の裏手に、同じ頭文字の保管庫があった気がする」
「閉まってるところ?」
「そう。閉まっている場所ほど、町の秘密は溜まりやすい」
言い方が気に入らなくて、ハヤは眉をひそめた。けれど、その瞬間、胸の奥で何かが小さく引っかかった。商店街の裏手。古びた扉。子どもの頃、近づくなと言われた場所。
「ねえ、それ、今夜のうちに確かめない?」
「嫌です」
「返事が早い。だが、鍵の物語は待ってくれない」
「鍵に物語なんかありません」
「あるとも。少なくとも、君がそんな顔をしているなら」
言い返そうとしたが、できなかった。境内の明かりの下で、鍵は手の中で小さく光り、ハヤの沈黙を責めるように冷たかった。
花屋へ戻る道すがらも、その重みは消えない。
今夜は祭りの片づけをして、売上を締めて、明日の仕入れの準備をして終わるはずだった。そういう決まった手順の中にいると、自分は前に出なくて済む。名札もいらない。誰かの記憶に残らなくても、仕事だけしていればいい。
なのに、ポケットの中の鍵は、まるで違う扉を叩いてくる。
店の前に着くと、ノイシュタットが先に暖簾を持ち上げた。
「さて、花屋の夜に秘密の鍵。上品で面倒だ」
「上品かどうかは知りません」
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「でも、面倒ではあるだろう?」
ハヤは答えず、エプロンのポケットへ鍵をしまった。
そのとき、店の奥から澄江がこちらを見た。老婦人の細い目が、ハヤの手元を一度だけ確かめるように動いた。
何も聞かれなかったのに、なぜか隠したことを見抜かれた気がした。