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祭りの翌朝、花屋「花は散らない」は、いつもより遅い朝日を浴びていた。山に囲まれた霧守町では、朝の光が通りに落ちるまで少し時間がかかる。石畳の坂はまだひんやりしていて、昨日の賑わいが嘘みたいに静かだった。
店の裏口で、ハヤは祭り用の浴衣をたたみ直していた。藍色の地に小さな白い花が散った浴衣だ。ハルミネが仕立て直してくれたもので、袖丈も歩幅も、ハヤの癖に合わせてきれいに直されている。
その袖の端に、うっすら焦げ跡がついていた。
「やっぱり焦げてる……」
「線香花火、最後まで持ちすぎたんだよ」
声と一緒に、ハルミネが背後から覗き込んできた。朝から針箱を抱え、すでに働く顔をしている。ハヤが浴衣を差し出すと、彼女は焦げ跡を見て、小さく息を吐いた。
「直せるけど。これ、危なかったね」
「落ちる前に払ったから」
「その“落ちる前”が一番危ないの」
そこへ、店先から場違いな声が飛んだ。
「線香花火は、願いの粘りを測る装置だと僕は思っている」
ノイシュタットである。朝から何を言っているのか分からない。花の水揚げを手伝う約束をしていたくせに、まず口が来る。
「装置じゃありません」
「では儀式かな。いや、競技か」
「どれでもないです」
ハルミネが吹き出しそうになるのをこらえながら、袖に糸を通す。店内には切り花の青い匂いと、朝の水の匂いが混ざっていた。桶の中で白いリンドウが揺れ、ガラス越しの光を細かく砕く。
そのとき、神社帰りらしいドゥシャンが、竹箒を肩に担いで顔を出した。
「知ってるか? 線香花火って、落ちる直前まで持たせた人の願いは叶うんだぞ」
「また始まった」
「本当だって。守森神社の裏で、おばあさんが言ってた」
「そのおばあさん、昨日も一昨日も違うこと言ってたと思うけど」
「昔話は日替わりのほうが楽しいだろ」
ドゥシャンは悪びれず笑う。気軽に信じ、気軽に口にする。その無防備さに、ハヤはいつも少し困る。
けれど、昨夜の線香花火を思い出すと、胸の奥がひどくざわついた。最後の火玉が落ちる前、自分は何を願ったか。
店が潰れませんように。
冗談のつもりで口にしたのに、あれはどう考えても本音だった。
ハヤは浴衣から目をそらした。ハルミネが気づいたように針を止める。
「どうしたの」
「何でもない」
「嘘。顔が“何でもない”じゃない」
「……言いたくないこともあります」
ノイシュタットが花ばさみを持ったまま、こちらへ首を傾けた。
「人は言いたくないことほど、大事なことだ」
「朝から重いこと言わないでください」
「なら軽く言おう。君、昨日、何を願ったの」
「嫌です」
「断り方が美しい」
「褒められてません」
ドゥシャンが、あっと声を上げた。
「もしかして、恋愛?」
「違います」
「じゃあ、お金?」
「もっと違います」
「じゃあ花屋?」
「……」
図星を突かれて、ハヤは口を閉じた。三人の視線が一斉にこちらへ向く。線香花火より厄介な沈黙が落ちた。
最初に視線を外したのはハルミネだった。彼女は焦げ跡に細い指を置いて、静かに言った。
「直すよ。見えないくらいに」
「ありがとう」
「でも、焦げたこと自体は消えないからね」
その言葉は浴衣の話のはずなのに、不思議なくらい胸へ残った。
店先で風鈴が鳴る。祭りの翌日だというのに、供花の注文が一件入った。ハヤは立ち上がり、浴衣を抱えたまま入口へ向かう。
願いが叶うかは分からない。でも、願ってしまった以上、何も見ないふりは昨日までほど上手くできない気がした。