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【あと12日】 最後の文化学
登場人物
水城レン
二十六歳。細身で、少し癖のある茶色の髪を耳の近くまで伸ばしている。瞳は濃い茶色。灰色の薄手ジャケットとベージュのシャツ、動きやすいパンツを着ている。古い資料を扱うことが多いため、指先には紙をめくる癖が残っている。
秋庭教授
六十二歳。短く整えた灰色の髪と、細い樹脂縁の眼鏡が特徴。背は低めで、茶色のカーディガンと灰色のシャツを好んで着る。古い資料を読むときだけ眼鏡を少し下げる癖がある。
戸倉
七十代ほどに見える男。深いしわのある顔に、短い灰色の髪。モカ色の古いコートを着ており、片手には長方形の古びた資料ケースを抱えている。歩き方は遅いが、目だけは落ち着かず、室内へ入ってからも何度も扉を確認する。
◆
朝の街には、音が少なかった。
車両が道路を滑っていく。
信号が切り替わる。
店舗の自動扉が開き、閉じる。
それだけだった。
水城レンは駅から研究棟までの道を歩きながら、何度目になるか分からないため息を吐いた。
左右に並ぶ建物は、どれも似ていた。
四角い。
必要な高さがある。
必要な窓がある。
必要な入口がある。
壁面には施設番号と用途だけが表示されている。
飲食区画。
生活用品区画。
医療区画。
行政区画。
それで十分なのだろう。
少なくとも、社会はそう判断している。
レンは歩道の端に立つ小さな掲示板を見た。
本日の推奨行動。
移動時間の短縮。
不要な外出の削減。
感情的判断の回避。
睡眠時間の確保。
昨日とほぼ同じだった。
先週も似た内容だった。
「退屈だな」
小声で言ってみた。
誰も振り向かなかった。
振り向く理由がないからだ。
前を歩く会社員らしい男は、灰色の上着に茶色のパンツ。
その先を歩く女性は、ベージュの上着に灰色のパンツ。
服の形にも大きな違いはない。
気温。
耐久性。
洗いやすさ。
動きやすさ。
服を選ぶ理由は、それくらいだった。
レン自身も大して変わらない格好をしている。
ただ、研究室に残っていた昔の雑誌を読んでから、シャツだけは自分で選ぶようになった。
ベージュ。
理由は特にない。
なんとなく気に入った。
その「なんとなく」が、この街では少し珍しい。
研究棟へ到着する。
建物の入口には、小さな表示板が取り付けられている。
文化史資料研究区画。
その下に、誰かが貼った紙があった。
無駄研究室。
レンは立ち止まった。
昨日まではなかった。
紙を指でつまみ、眺める。
印刷された文字。
悪意があるのか、冗談なのかもよく分からない。
現在では、冗談という行為そのものが珍しくなっている。
「ずいぶん暇な人もいるな」
紙を剥がそうとして、やめた。
そのまま扉を開ける。
階段を二階まで上がり、研究室へ入った。
古い紙の匂いがした。
レンは、この匂いが好きだった。
社会では資料の電子化が進み、紙そのものを見ることが少なくなっている。
だが、この研究室には紙が多い。
本。
雑誌。
写真。
広告。
日記。
包装紙。
旅行案内。
映画の半券。
用途不明の小さな紙片。
棚には「必要ではないもの」が詰め込まれていた。
奥の机で秋庭教授が冊子を読んでいる。
茶色のカーディガンの袖を少しまくり、樹脂縁の眼鏡を鼻の近くまで下げていた。
「入口に新しい名前が付いてましたよ」
レンが荷物を机へ置いた。
「何て?」
「無駄研究室」
教授は冊子から目を離さなかった。
「分かりやすくていいじゃないか」
「正式名称にします?」
「申請理由を書くのが面倒だ」
「そこなんですね」
レンは椅子に座った。
机の端に昨日の資料が積まれている。
百二十年前の生活用品広告。
古い遊園施設の案内図。
用途不明の紙製カード。
そして、笑っている人々の写真。
七人ほどが肩を寄せ合っている。
何がおかしいのか分からない。
それでも全員が口を大きく開けて笑っていた。
レンは写真を持ち上げる。
「昨日これ、三時間見てたんですよ」
「知ってる」
「何がそんなに楽しかったんでしょうね」
「知らない」
教授の返答は速かった。
「教授でも分からないんですか」
「文化研究者だから何でも知っていると思うな。分からないから研究するんだ」
レンは写真を戻した。
その答えは好きだった。
この研究室では、「分からない」が許される。
外では、分からないものは検索する。
検索結果を確認する。
必要なら学ぶ。
それで終わる。
だが文化研究では、記録を見つけても答えにならないことが多い。
なぜ人は歌ったのか。
なぜ着飾ったのか。
なぜ遠くへ旅行したのか。
なぜゲームに何時間も使ったのか。
なぜ祭りで騒いだのか。
記録には行動が残る。
理由は残らない。
「今日は何をやります?」
「倉庫三の整理」
「またですか」
「嫌か?」
「好きですけど」
レンは立ち上がった。
その瞬間だった。
研究室の扉が三回鳴った。
コン。
コン。
コン。
二人とも動きを止めた。
この研究室を訪れる人間は少ない。
資料を届ける職員なら、扉を叩かず入室通知を送る。
学生はいない。
文化学を専攻する者が、現在ほとんど存在しないからだ。
教授が眼鏡を上げた。
「誰だろう」
扉がもう一度鳴る。
今度は二回。
レンが歩いていき、開けた。
老人が立っていた。
年齢は七十を越えているように見える。
短い灰色の髪。
モカ色の古いコート。
胸元まで抱えるようにして、細長い資料ケースを持っている。
老人はレンを見た。
次に、その背後へ視線を送った。
「秋庭教授は」
「います」
教授が椅子から立った。
老人の顔を見た瞬間、わずかに眉を寄せる。
「どちらで?」
老人は答えなかった。
廊下を見る。
右。
左。
階段の方向。
それから再び研究室の中を見た。
「入っても?」
レンは扉を広く開けた。
老人が室内へ入る。
扉が閉じるまで、その男は振り返ったままだった。
カチッ。
鍵が収まる音。
老人の肩が少し下がった。
教授が机の前の椅子を指した。
「どうぞ」
老人は座らない。
抱えていた資料ケースを机へ置いた。
ゴトッ。
見た目より重い音がした。
レンと教授がケースを見る。
傷が多い。
角が潰れている。
表面には何も書かれていなかった。
「これは?」
教授が尋ねた。
老人はレンを見た。
「彼は?」
「研究員だ」
「信用できる?」
レンは思わず教授を見る。
教授は少し考えた。
「私よりは」
「どういう意味ですか」
老人の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
だが、すぐに消えた。
「二人とも、これから話すことを外で口にしないでほしい」
教授が椅子へ座り直す。
「内容によります」
「正しい」
老人はそこで初めて椅子へ腰を下ろした。
両手を膝へ置く。
指が細かく震えている。
レンはそれに気付いたが、何も言わなかった。
「文化について研究しているそうですね」
「それが仕事なので」
「消えた文化を?」
「主に」
老人が部屋を見回す。
棚。
本。
箱。
昔の写真。
壊れた遊び道具。
使い方の分からない楽器の一部。
「こんなに残っていたのか」
その言葉だけ、少し声が違った。
レンは老人を見る。
「文化資料に詳しいんですか?」
「詳しくなりたくはなかった」
意味が分からなかった。
老人は資料ケースへ手を置いた。
「あなたたちは、文化がなぜ消えたと考えている?」
教授が答える。
「一つではありません。生活構造の変化、娯楽に対する評価の低下、効率重視、継承者不足、施設維持の負担。それらが長期間重なった結果だと考えています」
「自然に?」
教授が黙った。
老人がもう一度言った。
「自然に消えたと思っていますか」
レンは机の上の写真を見た。
笑っている七人。
誰も彼らに笑うなとは言わなかっただろう。
祭りを禁止する命令が出た記録もない。
ゲームを一斉に廃棄させた法律もない。
音楽を聞くことが違反になった時代も確認されていない。
それでも、消えた。
「自然という言葉が正しいかは分かりません」
教授が答えた。
老人が資料ケースの留め具へ指をかけた。
カチ。
一つ。
カチ。
二つ。
蓋がゆっくり持ち上がる。
中には十二冊の薄い資料束が入っていた。
すべて同じ大きさ。
それぞれ番号だけが印刷されている。
一。
二。
三。
四。
十二まで。
レンは身を乗り出した。
「何ですか、これ」
「実験記録です」
「何の?」
老人はしばらく答えなかった。
研究室の換気装置が低く鳴っている。
壁時計の秒表示が進む。
一秒。
二秒。
三秒。
「文化を消す実験」
レンの指が止まった。
教授は老人から目を離さない。
「文化を……消す?」
「禁止する実験ではありません」
老人は一冊目へ触れた。
「文化を壊す必要もない。施設を潰す必要もない。作品を燃やす必要もない。人間の側から、必要ないと思わせればいい」
レンは椅子を引き寄せた。
音が床へ響いた。
「どうやって」
「見せ方です」
老人の声は淡々としていた。
「一つの文化には、多くの側面がある。楽しい側面もあれば、負担になる側面もある。人とのつながりを生むこともあれば、時間を使うこともある」
老人は一冊目を指で軽く叩いた。
「なら、一方だけを見せ続けたらどうなるか」
教授の顔から表情が消えた。
「情報操作ですか」
「完全な嘘は使わない」
「それでも操作でしょう」
「だから成功した」
老人は教授を見る。
「嘘なら疑われる。事実なら疑われにくい」
レンの頭に、いくつかの古い記事が浮かんだ。
祭りの維持費。
ゲームに費やされる時間。
旅行による疲労。
装いに使われる費用。
趣味によって失われる作業時間。
研究で何度も見てきた。
当時の記事。
当時の番組記録。
当時の教育資料。
一つ一つなら、特別おかしくはない。
「まさか」
レンが呟いた。
老人は何も言わない。
「全部……同じところが?」
「全部ではない」
「じゃあ、どれくらい」
「それを知るための資料です」
教授が十二冊を見る。
「誰が行った」
老人の指が震えた。
今度ははっきり分かった。
「団体名は資料の後半にある」
「あなたはその団体と関係が?」
老人は口を閉じた。
教授がさらに聞こうとしたとき、老人が手を上げた。
「今日はそこまでにしてください」
「待ってください」
レンが言った。
「これだけ持ってきて、そこまでって」
「一日に一冊」
老人が言った。
レンは聞き返した。
「え?」
「一日に一冊ずつ読んでください」
「なんでですか」
「そう記録されている」
老人は資料ケースの内側を指した。
そこには小さな文字が印刷されていた。
閲覧周期 一日一記録。
レンは首を傾げた。
「別に守る必要ないですよね」
「あります」
「どうして」
老人の目が、初めてレンだけへ向けられた。
「十二日しかないからです」
研究室が静かになった。
レンは数字を見た。
十二。
資料も十二。
「十二日って」
老人は一番下から、薄い紙を一枚取り出した。
教授へ渡す。
教授が受け取る。
最初は普通に読んでいた。
途中で指が止まった。
眼鏡を外す。
紙へ顔を近づける。
もう一度読む。
「教授?」
返事がない。
レンが横から覗き込んだ。
観測記録。
地殻変動。
複数地点。
発生予測。
文章の意味を追っていく。
途中から、呼吸が浅くなった。
最下部。
発生予測日。
今日から十二日後。
日本列島広域。
壊滅規模。
レンは紙から顔を上げた。
「何ですか、これ」
老人は答えない。
「予測?」
「記録です」
「未来の日付ですよ」
「予測を記録したものです」
「こんなの」
レンは笑いかけた。
笑えなかった。
教授が紙を机へ置く。
「地震の発生日時を、ここまで限定して予測する技術は確立していない」
「現在は」
老人が言った。
教授の眉が動く。
「どういう意味だ」
老人はケースを閉じなかった。
十二冊の資料が並んだままだ。
「文化抹殺計画が始まった理由を、あなたたちは文化の資料だと思うでしょう」
「違うんですか」
「半分だけ違う」
老人が一番目の資料束を取り出した。
机の中央へ置く。
「この国はいずれ失われる。その仮説が計画の出発点でした」
レンは意味を理解するまで数秒かかった。
「失われるから……文化を消した?」
「利用した」
老人の声が少し低くなる。
「いずれ大規模な災害で多くの記録が失われるなら、その前に社会実験を行える。文化が物理的に消える前に、人間の意識から消せるかどうか」
「そんな理由で?」
レンの声が大きくなった。
老人は動かなかった。
「祭りも、音楽も、遊びも?」
「私は説明するために来たんじゃない」
「じゃあ何のために来たんですか」
老人はレンを見た。
長いしわの奥で、目だけが鋭かった。
「読んでもらうためです」
レンは机を見た。
十二冊。
たった十二冊。
これだけで、この世界の退屈さに理由がつくとは思えない。
街に音楽がないこと。
祭りがないこと。
遊ぶためだけの施設がほとんどないこと。
服を楽しむ人が珍しいこと。
笑う人が少ないこと。
それら全部が、誰かの実験の結果だと言われても、簡単には信じられなかった。
教授が一冊目を手に取った。
表紙には数字しかない。
「これを一日一冊」
「はい」
「十二冊目を読む日は」
教授の指が止まった。
老人が答えた。
「あと一日です」
レンの背中に冷たいものが走った。
十二日目。
最後の資料。
その翌日。
巨大地震。
「偶然じゃないんですか」
レンは聞いた。
「この予測日と、十二冊という数」
老人は立ち上がった。
「そうであってほしいですね」
「あなたは信じてる?」
老人はコートの前を整えた。
「私は信じるために来たんじゃない」
「じゃあ」
「間に合わなかったことを、渡しに来た」
教授が顔を上げる。
「間に合わなかった?」
老人は扉へ向かった。
レンが立ち上がる。
「待ってください。まだ何も聞いてない」
老人は扉の前で止まった。
「一冊目を読めば、質問が変わります」
「明日も来るんですか」
「必要なら」
「連絡先は」
「ありません」
「名前だけでも」
老人は少しだけ振り返った。
「戸倉」
それだけ言った。
レンが続けて聞く。
「下の名前は?」
「必要ない」
扉が開く。
老人は廊下を確認してから外へ出た。
足音が遠ざかる。
レンはしばらく扉を見ていた。
やがて振り向く。
教授はまだ資料の前に座っている。
「警察とか、行政とか」
「何を言う」
「十二日後に日本が壊滅するって」
「根拠は?」
レンが黙る。
教授は地震予測の紙を指で押さえた。
「今あるのは、知らない老人が持ってきた紙一枚だ」
「でも」
「信じていないわけじゃない」
教授は一冊目へ手を置いた。
「だから困っている」
レンは椅子へ戻った。
時計を見る。
午前十時十二分。
普通なら今ごろ倉庫三で、古い生活用品を分類していたはずだった。
昼になれば簡単な食事を取る。
午後も整理。
夕方に帰る。
明日も同じ。
十二日後も、おそらく同じ。
そう思っていた。
レンは地震予測の紙を見る。
十二日後。
数字だけがやけにくっきり見える。
「一日に一冊、本当に守ります?」
教授は答えない。
「今、全部読んだほうがいいんじゃないですか」
「私もそう思う」
「じゃあ」
教授が一冊目を開いた。
最初の頁を見たまま、動きを止める。
レンが隣へ寄った。
そこには一枚の写真が印刷されていた。
大勢の人。
提灯。
屋台。
踊る人々。
笑う子ども。
何かを持って走る男。
人が密集している。
現在なら、移動効率が悪いと判断されそうな光景だった。
写真の下に短い文章がある。
第一対象。
祭事文化。
観測開始。
レンは息を呑んだ。
教授が頁をめくる。
次には記事。
地域祭事、維持費増大。
さらに次。
交通規制による経済損失。
次。
騒音への苦情。
次。
事故危険性。
次。
若年層参加率の低下。
古い記事が大量に並んでいる。
どの記事にも嘘らしい記述はない。
それぞれ、実際に起きた問題を扱っている。
だが、その次の頁を見て、レンの手が止まった。
実験経過。
好意評価。
一年目、七十三。
三年目、六十一。
五年目、四十九。
八年目、三十二。
十一年目、十八。
祭事継続地域数。
減少。
参加人口。
減少。
自主開催希望。
減少。
教授が低く呟く。
「測っている」
レンは頁へ顔を近づけた。
数値が並んでいた。
まるで薬品の反応でも調べるように。
文化に対する人間の気持ちが、数字として記録されている。
さらに頁をめくる。
記事配信頻度。
教育資料への反映率。
番組内で使用された表現。
対象地域。
世代別反応。
十一年間。
十二年間。
十五年間。
長い。
気が遠くなるほど長い。
誰かが、毎年測り続けている。
「これ……」
レンは言葉を探した。
「一回の記事じゃない」
教授が頷いた。
「何年も続けている」
「こんなの偶然じゃ」
言いながら、次の頁を見た。
計画目的。
禁止措置を使用せず、対象集団自身の価値判断によって文化活動を終了させること。
レンは黙った。
教授も黙った。
研究室の外で、遠く車両が走る音がした。
しばらくして消えた。
静かだった。
あまりにも静かだった。
レンは窓へ歩いた。
研究棟の二階から街を見る。
整った道路。
整った建物。
歩く人々。
誰も走らない。
誰も立ち止まらない。
音楽はない。
店先で誰かが客を呼ぶ声もない。
飾りも少ない。
広場には人が座れる椅子がある。
だが、長居する者はいない。
必要な場所へ行き、必要なことをして帰る。
レンはこれまで、その街をただ退屈だと思っていた。
それだけだった。
今日から、見え方が変わった。
ここは文化が消えた街ではないのかもしれない。
文化を消したあとに残った街なのかもしれない。
「教授」
「何だ」
「もし、これが本物だったら」
「うん」
「俺たち、何を研究してたんでしょう」
教授は一冊目を閉じなかった。
「結果だろうな」
レンが振り返る。
「結果?」
「我々はずっと、結果だけを調べていた」
教授は祭りの写真を指差した。
「文化があった」
次の頁。
「消えた」
さらに次。
「現在は誰も必要としない」
教授は眼鏡を外した。
「その途中が抜けていた」
レンは窓際から戻った。
老人が言っていた。
一冊目を読めば質問が変わる。
その意味が少し分かった。
さっきまで聞きたかったのは、
誰がやったのか。
どうしてやったのか。
地震は本当なのか。
今は違う。
レンは祭りの写真を見る。
笑っている人々。
騒いでいる。
踊っている。
何の成果も出していない。
ただ集まっている。
「これ」
レンが写真を指した。
「この人たち、本当に楽しかったんですかね」
教授がレンを見る。
「そこに戻るのか」
「だって」
レンは椅子へ座った。
「実験で消されたなら、消す前は何があったのか知らないと」
教授の口元が少し緩んだ。
レンは写真を持ち上げた。
「俺、祭りって資料でしか知らないです」
「私も実体験はない」
「人がこんなに集まって、何するんです?」
「調べるか」
「今日?」
教授は一冊目を軽く叩いた。
「一日一冊なんだろう」
レンは壁時計を見る。
午前十時四十六分。
まだ一日は長い。
あと十二日。
その言葉が頭の奥に残っている。
十二日後に日本が壊滅する。
信じられない。
信じたくもない。
だが一冊目の資料は、目の前にある。
祭りを消すための長い記録。
その記録の最初に写っている人々は、驚くほど楽しそうだった。
レンは研究用端末を起動した。
「祭りの映像、残ってるもの全部出します」
教授が隣へ椅子を運ぶ。
「全部は多いぞ」
「じゃあ古い順」
画面に映像一覧が表示される。
百年以上前。
百三十年前。
百五十年前。
レンは一番古い映像を選んだ。
再生。
小さな広場。
大勢の人。
太鼓を叩く人。
走る子ども。
食べ物を持って歩く人。
踊る人。
笑う人。
音声が流れた瞬間、レンは反射的に音量を下げた。
「うるさっ」
教授が笑った。
レンが横を見る。
教授自身も少し驚いた顔をしている。
「これを毎年やってたんですか」
「らしいな」
「効率悪そう」
「そうだな」
「人、多すぎ」
「そうだな」
「暑そう」
「そうだな」
レンは映像を見続けた。
人々は汗をかいている。
混雑している。
並んでいる。
待っている。
荷物を持っている。
どう考えても効率は良くない。
それなのに。
帰ろうとしている人が少ない。
子どもが何かを指差して跳ねる。
大人が笑う。
店の前で誰かが食べ物を渡す。
太鼓の音が響く。
知らない人同士が肩を並べる。
レンは再生を止めなかった。
気付けば十分経っていた。
「教授」
「何だ」
「分からないです」
「何が」
「何で楽しそうなのか」
教授は映像を見ている。
「研究題目ができたな」
レンは一冊目の資料へ視線を移した。
消された祭り。
その向こうに、まだ自分たちの知らないものがある。
午後。
夕方。
夜。
今日一日かけても、きっと全部は分からない。
それでも調べる。
明日は二冊目。
その次の日は三冊目。
一冊進むたび、一日減る。
レンは端末の隅へ、小さく入力した。
あと十二日。
文字が表示される。
教授が見る。
「何だ、それ」
「忘れないように」
「信じるのか」
レンは少し考えた。
「まだ」
そして映像を再生した。
太鼓の音が、文化のない研究室へ流れ出す。
普段なら聞こえる換気装置の低い音が、その瞬間だけ分からなくなった。
窓の向こうには、いつもの退屈な街がある。
何も変わっていない。
研究室の中だけが、百年以上前の騒がしい一日に触れていた。
レンは画面を見る。
祭りの中央で、一人の子どもが笑っていた。
理由はまだ分からない。
だから調べる。
机の上には、残り十一冊。
そして端末の隅には、
あと十二日。
その数字だけが、静かに残っていた。
コメント
1件
おお、これはめちゃくちゃ深い話だわ…。 「無駄研究室」って書き置きから始まる空気感、もう退屈さがビンビン伝わってきた。で、急に現れる老人と「文化を消す実験」って衝撃の一言。嘘じゃない、でも事実だけを見せ続けるって手法が、効率化された現代社会への皮肉にも読めて鳥肌立った。 「一日一冊」って縛りも、逆に十二日後のカウントダウン感を生んでてゾクゾクする。レンが「理由はまだ分からない。だから調べる」って動き出す最後、めっちゃ熱いわ。続き、絶対読みたい🔥
ruruha
2,046
#初心者
ゆいぽん
481
水面
246
30