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放課後の相談室は、窓を少し開けていた。外のグラウンドの声が、遠くで反響している。
「……今、いい?」
扉の前に立っていたのは、同じ学年の生徒だった。表情は普通。でも、その“普通”が少し固い。
「どうぞ」
日下部は椅子を引いた。それ以上は何も言わない。
生徒は座ると、すぐに話し始めた。
「俺さ、最近、怒れなくなった」
日下部は頷くだけで、先を促さない。
「前は、ムカついたらムカついたって思えたんだけど……今は、嫌なことあっても、“まあいいか”って流しちゃう。で、あとから、すごい疲れる」
「……怒らないほうが楽、って思ってた?」
「最初は。揉めないし、空気も壊れないし」
生徒は苦笑いをした。
「でもさ、気づいたら、ずっと俺だけ我慢してて。家でも、学校でも。怒らないのが当たり前みたいになってた」
日下部は少し間を置いてから言った。
「怒らないんじゃなくて、怒れない、だな」
生徒が一瞬、黙る。
「……そうかも」
「怒ると、何か失いそう?」
「……うん。嫌われるとか。面倒なやつって思われるとか」
日下部は机の端を指で軽く叩いた。
「それ、たぶん前に一回、失ってる」
「え?」
「怒った結果、何か壊れたことあるだろ」
生徒は視線を逸らした。
「……あった。中学のとき」
「だからだ」
断定でも責めでもない。事実を並べただけの声。
「怒る=危険、って体が覚えた。だから先に引っ込めてる」
「……じゃあ、俺が悪いわけじゃない?」
「少なくとも、意味のない癖じゃない」
生徒は息を吐いた。
「でもさ、このままだと、俺、何も言えない人間になる気がして」
「もうなりかけてる」
きつく聞こえないよう、日下部は淡々と言った。
「怒れないって、“優しい”とは違う。自分の境界線が消えてる状態だ」
「境界線……」
「ここまでは嫌、って線。怒りは、その線が踏まれたサイン」
生徒はしばらく黙り込んだあと、ぽつりと言った。
「……じゃあ、どうすればいい」
「いきなり怒らなくていい」
日下部は少し考えてから続ける。
「まず、“嫌だった”って自分の中で認める。声に出さなくてもいい。無理に正当化もしない」
「それだけ?」
「それだけ。怒る前の段階だ」
生徒は少しだけ肩の力を抜いた。
「……怒らないの、楽だと思ってたけど、違ったんだな」
「楽じゃない。生き延び方だ」
日下部はそう言って、窓の外に目を向けた。
「でも、生き延び方は変えていい」
生徒は、ゆっくり立ち上がる。
「……ここ来てよかった」
「それなら、また来ればいい」
慰めも、結論もない。ただ、線を引き直す場所が、ここにあるだけだった。