放課後の相談室は静かだった。机の上に置かれたプリントが、誰にも触れられないまま端を揃えている。
「……入っていい?」
「いいよ」
日下部は椅子を一つ引いた。来た生徒は立ったまま、しばらく視線を彷徨わせてから座る。
「最近さ、褒められることが増えたんだよね。成績とか、部活とか」
「うん」
「なのに、嬉しくならない。むしろ、距離取りたくなる」
日下部は頷くだけで、続きを待つ。
「“よくやってるね”って言われるとさ……次もそれを出さなきゃ、って思う。できなかったら、がっかりされる気がして」
「期待が増えるのが、しんどい」
「そう。だから、ちょっと手抜いたり、目立たないようにしたりする」
生徒は自嘲気味に笑った。
「褒められる前の自分に戻りたくなるんだ。何も求められてなかった頃の」
日下部は少し考えてから言った。
「それ、逃げじゃないと思う」
「……え」
「守ってる。自分を」
生徒が目を上げる。
「褒め言葉が“条件”に聞こえるときってある。次もできて当然、って」
「……まさにそれ」
「だったら、距離を取るのは自然だよ。条件から離れたいだけ」
沈黙が落ちる。窓の外で、誰かの笑い声が遠くに弾んだ。
「でもさ、このままだと、ずっと怖いままじゃん」
「怖さは消えないと思う」
日下部は率直に言った。
「ただ、分けられる。“できた自分”と“できなかった自分”を、同一にしない」
「どうやって」
「褒められた事実だけ受け取る。意味づけはしない。“期待された”とか、“次も”とか、勝手に足さない」
生徒は眉をひそめる。
「それ、難しくない?」
「難しい。だから練習」
短く言って、続けた。
「褒められたら、“今の話”って心の中で区切る。未来まで背負わない」
「……今の話、か」
「うん。今の話」
生徒は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
「……それなら、少しは逃げなくて済むかも」
「逃げてもいいけどな」
「え」
「ただ、選べるようになると楽だ」
立ち上がる生徒の肩から、さっきより力が抜けている。
「また来ていい?」
「いいよ」
日下部はそれだけ言った。
条件のない返事が、ここにはあった。
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