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日下部の“相談室”は、旧校舎の一角にひっそりと設けられている。相談室といっても、正式な部屋ではない。誰かが古い机を持ち込んで、日下部がなんとなくそこに座るようになって、いつの間にかそう呼ばれるようになった場所だ。
夕方、誰もいないはずの扉が、控えめにノックされた。
「……入っていいですか」
現れたのは、普段あまり目立たない女子生徒。長い黒髪を後ろでひとつに結び、イヤホンのコードを制服の内側に隠していた。手にはスマホ。
「どうぞ。初めて?」
「……はい」
彼女は視線を上げないまま、机の前の椅子に腰掛けた。
「相談ってほどじゃないんですけど……なんか最近、ずっと疲れてて」
「どんなふうに?」
「……SNSとかで、誰かの人生ばっかり見てるんです。
旅行、ブランド、誕生日サプライズ、告白されたとか、彼氏とおそろいの服着てるとか……。
“すごいね”とか“羨ましい”って言いながら、内心じゃずっと比べてる。勝手に落ち込んで、なんで自分はこんなに何もないんだろうって……。
でもやめられないんです。見てないと、もっと取り残される気がして」
彼女の声は、途中から細く震えていた。
「なんか、誰かの人生ばっかり見てて、自分が動いてない気がする。
気づいたら夜になってて、なにしてたんだろうって……。私、何のために生きてるんでしょうね」
日下部はしばらく黙っていた。
「それ、たぶん、俺もあるよ」
彼女がはっと顔を上げた。
「俺だって、誰かの言葉読んで、“なんでこんな風に書けるんだろう”って思ったり、誰かの人生を覗いて、焦ったりする。特別な人になれそうな気がして、何もできない自分がみじめになったり」
「……でも、日下部くんはちゃんとしてるじゃないですか」
「“ちゃんとしてるように見えてる”だけだろ」
日下部は不器用に笑った。
「でもな、他人の人生を見てばっかで、歩くの止めると……ほんとに置いてかれるぞ。
そのスマホ閉じて、自分のこと、ちょっとでも動かしてみたらいい。いきなり特別にならなくていい。小さくても、“今の自分”が何したかだけ、記録してみろよ。
“見てただけの一日”と、“自分で何か選んだ一日”って、重さが全然違うから」
彼女はゆっくり頷きながら、スマホの画面を消した。
「……なんか、泣きそうになった。ありがとうございます」
日下部は何も返さず、ただ机に置かれたペンをくるくると指で回した。
「……また来てもいいですか?」
「ああ」
彼女がふっと笑う。
それは、今日一日で初めて“自分で選んだ”表情だった。