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取り調べ室に入った瞬間、久我は理解した。
――今日は、流れが違う。
黒瀬は、すでに席についていた。
背筋を伸ばし、手を膝の上に置いている。
だが、その視線だけが、これまでよりも深く久我を捉えていた。
「……始める」
久我はそう言って椅子に座る。
録音機のスイッチを入れる指が、わずかに震えた。
「当日の行動を、時系列で話せ」
「昨日、もう話しました」
「もう一度だ」
黒瀬は一瞬だけ久我を見つめ、それから静かに語り始めた。
内容は同じ。
矛盾もない。
声も、落ち着いている。
――それなのに。
久我は、言葉が耳に入ってこなかった。
昨日の“指先”が、思考の底に沈んだまま、動かない。
「……以上です」
黒瀬が言って、沈黙が落ちた。
久我は、質問を用意していたはずだった。
だが、そのどれもが、今は意味を失っている。
「久我さん」
黒瀬が、先に口を開いた。
「今日は、あなたの方が静かですね」
「……職務だ」
「ええ」
黒瀬は頷く。
「でも、昨日より
あなたはここに“います”」
久我は、眉をひそめた。
「何が言いたい」
黒瀬は、少しだけ息を整えた。
それは、これまで一度も見せなかった仕草だった。
「一つ、伝えておくべきことがあります」
「供述か」
「いいえ」
黒瀬は、ゆっくりと首を振る。
「告白です」
告白。
その言葉に、久我の背筋が強張る。
「……ここは、取り調べ室だ」
「分かっています」
黒瀬は、視線を逸らさない。
「だからこそ、言います」
久我は、止めるべきだった。
だが、声が出なかった。
「あなたなら」
黒瀬は、静かに続ける。
「――殺しても、許された」
空気が、止まった。
「……何を、言っている」
久我の声は、かすれていた。
「もし、あなたが私を殺したとしても」
黒瀬は淡々と言う。
「動機も、状況も、心理も、
すべて“理解される側”にあった」
「黙れ」
久我は、机を叩いた。
乾いた音が、部屋に響く。
「そんな仮定を口にするな」
「仮定ではありません」
黒瀬は即答した。
「私は、そう判断しました」
久我は、立ち上がりかけて、踏みとどまる。
「君は、自分が何を言っているか分かっているのか」
「ええ」
黒瀬の声は、揺れない。
「あなたが、境界を越える条件を」
久我は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「……私は、そんな人間じゃない」
「知っています」
黒瀬は、初めてほんのわずかに微笑んだ。
「だから、許された」
「……」
「衝動ではなく、理解の末に選ぶ人だから」
久我は、椅子に手をついた。
頭の中が、白くなる。
「君は……私を試しているのか」
「違います」
黒瀬は首を振る。
「私は、あなたを“見た”だけです」
「何を」
「触れた時」
久我の心臓が、強く打つ。
「あなたは、拒絶しなかった」
黒瀬は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「恐れ、混乱しながらも、
私を“危険”として切り捨てなかった」
久我は、何も言えない。
「だから、思ったんです」
黒瀬は、少しだけ声を落とした。
「この人なら、
誰かを壊しても、
自分だけは壊れない方法を選ぶ」
久我は、目を伏せた。
「……それは、褒め言葉じゃない」
「分かっています」
黒瀬は、静かに答える。
「でも、それが私の“信頼”です」
信頼。
その言葉が、胸に刺さる。
「君は……私を巻き込もうとしている」
「いいえ」
黒瀬は、きっぱりと言った。
「私は、あなたを
こちら側に引きずり込まない」
「……」
「だから、告白しました」
久我は、顔を上げた。
「意味が、分からない」
「距離を、明確にするためです」
黒瀬は、淡々と続ける。
「あなたは、越えられる。
でも、越えない人だと」
久我は、笑ってしまいそうになった。
あまりにも、残酷な評価だった。
「……今日は、終わりだ」
久我は、そう告げるのが精一杯だった。
「はい」
黒瀬は、素直に応じる。
護送される直前、黒瀬は一度だけ振り返る。
「久我さん」
「……何だ」
「私は、あなたを信じています」
久我は、何も返せなかった。
ドアが閉まる。
取り調べ室に、一人残される。
――許された。
――信じられた。
そのどちらもが、
久我にとっては罰に近かった。
正義を守ってきたはずの自分が、
いつの間にか“殺しても理解される側”に
置かれている。
それが、黒瀬の告白の本当の意味だと、
久我は遅れて理解した。
この男は、
自分を救うつもりなど最初からない。
ただ――
自分と久我の間に、戻れない線を引いただけだ。