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その日、久我は取り調べ室へ向かわなかった。
代わりに、地下の資料保管室にいた。
冷たい蛍光灯の下、古い事件ファイルが無造作に積まれている。
失踪事件――過去二年分。
黒瀬が関与したと“されている”もの。
だが、読み進めるほどに、違和感は強まっていった。
手口が、揃いすぎている。
行動時間、移動経路、証拠の残り方。
まるで、誰かが「黒瀬という犯人像」に合わせて
事件を並べ替えたかのようだった。
「……雑だ」
久我は、思わず呟く。
犯行そのものは慎重だ。
だが、“犯人に結びつく部分”だけが、妙に分かりやすい。
――黒瀬なら、こんな置き方はしない。
その考えが浮かんだ瞬間、久我は自分に苛立った。
なぜ、基準が黒瀬なのか。
だが、理屈より先に感覚が答えを出していた。
昼過ぎ、久我は捜査本部に戻った。
壁一面に貼られた相関図の中央には、黒瀬の写真がある。
「久我さん」
後輩刑事が声をかけてきた。
「被害者の一人、 新しい目撃情報が出ました」
「黒瀬か」
「……いえ」
一瞬の沈黙。
「別の男です。
顔は映っていませんが、 体格が合わない」
久我の心臓が、嫌な音を立てた。
「なぜ、それが上に上がっていない」
「決定打がないから、だそうです。
“今さら流れを乱すな”って」
久我は、無言で写真を受け取った。
ぼやけた映像。
だが、黒瀬の歩き方ではない。
――違う。
確信に近いものが、胸に広がる。
夕方、久我は取り調べ室に向かった。
黒瀬は、いつも通りそこにいた。
「今日は、遅かったですね」
「……確認したいことがある」
久我は、椅子に座ると同時に切り出した。
「この事件、 本当に君がやったのか」
黒瀬の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが、すぐに元に戻る。
「また、その質問ですか」
「違う」
久我は、机に資料を置いた。
「目撃情報。
犯行時刻。
一致しない部分が出てきた」
黒瀬は、資料に目を落とさなかった。
「それで」
「君が犯人ではない可能性がある」
その言葉を、久我は慎重に選んだ。
期待も、拒絶も込めないように。
黒瀬は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それは、困ります」
「……何だと」
「あなたが、そこに辿り着くのが
もう少し先だと思っていました」
久我の背中に、冷たいものが走る。
「君は……知っていたのか」
「ええ」
黒瀬は、淡々と頷いた。
「私が“真犯人ではない”可能性が、
いずれ浮上することを」
「なら、なぜ黙っている」
黒瀬は、久我を見つめた。
「それを話せば、
あなたは戻れなくなる」
「……戻る?」
「捜査官として、です」
久我は、拳を握った。
「私は、真実を追っている」
「ええ」
黒瀬は肯定する。
「だからこそ、危険なんです」
「どういう意味だ」
「真実が、
あなたを守るとは限らない」
久我は、息を詰めた。
「君は……自分が犯人でないと知りながら、
ここに座っているのか」
「座っています」
即答だった。
「それは、
自分を犠牲にしているつもりか」
黒瀬は、少しだけ考えてから答えた。
「いいえ。
あなたを、守っています」
久我は、言葉を失った。
「勘違いしないでください」
黒瀬は続ける。
「私は、正義の味方ではない。
ただ――」
一瞬、声が低くなる。
「あなたが、
“疑う側”から
“疑われる側”に落ちるのを
見たくないだけです」
久我は、視線を逸らした。
その言葉が、
優しさなのか、支配なのか、判断できなかった。
「……今日は、終わりだ」
「はい」
黒瀬は、いつもと同じように頷く。
久我は、立ち上がりながら気づく。
疑念は、もう事件だけに向いていない。
上層部。
捜査の流れ。
そして――自分自身。
黒瀬が犯人でない可能性。
それは、希望ではなかった。
久我を、確実に孤立させる刃だった。
取り調べ室を出た久我は、
初めてはっきりと理解する。
この事件で試されているのは、
推理力でも正義感でもない。
――誰を疑い、誰を信じ、
それでも自分でいられるか。
その問いに、
もう簡単な答えは残っていなかった。