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モンシロが一歩前へ出る。
「名前」
「ハディジャ。下町で何でも屋をやってる」
「ここへ来た理由は」
「封書をひったくられた女を見た。取り返そうとした。以上」
「簡潔すぎます」
ロビサが言うと、ハディジャは呆れたように鼻で笑った。
「長く話したら信じるのかよ、優等生さん」
「その呼び方はやめてください」
「じゃあ何だ。記録官さま?」
「その言い方も不愉快です」
「難儀だな」
不愉快なのはこっちだ、と言い返しかけたときだった。
路地の入口では、被害者の妻が子どもの名を呼びつづけている。その声が細く震えるたび、今ここで次の被害を出すわけにはいかないと、ロビサの背筋が強張った。
男の子が、父親の袖からふっと手を離した。
視線の先、血の広がった壁際の影が、不自然に盛り上がっている。霧を吸った墨の塊のようなものが石畳を這い、細い腕の形を取って子どもの足首へ伸びた。鬼害の残滓が、小鬼になりかけている。
「下がって!」
ロビサが叫ぶより早く、ハディジャが駆けた。路地脇の荷箱を蹴って飛び、子どもを抱え上げる。だが影はしつこく追いすがり、爪のように尖った先端で彼の背を狙った。
ロビサは記録針を抜いた。戦うための道具ではない。それでも、名の残滓へ触れるには十分だった。
「モンシロ班長、灯りを!」
声に応じ、班長が携帯灯を投げる。ロビサは受け取らず、そのまま蒼い鏡の欠片を影へ向けた。青い光が走る。鏡面へ浮かんだのは、たったひとつの音だった。
――ミオ。
子どもの名を呼ぶ、さっきの男の最期の声。
「ミオから離れなさい!」
ロビサはその名を叩きつけるように読み上げ、記録針で影の中心をなぞった。鬼は甲高い音を立ててひるむ。そこへハディジャが、空いた手で干し肉屋の看板棒を引き抜き、横殴りに打ち据えた。霧が裂け、黒い塊が壁へ散る。
完全には消えない。ならば、とロビサは羊皮紙へ急いで一行を書いた。
『父は最後まで子を呼んだ』
文字が定着した瞬間、壁へへばりついていた影が、水へ溶ける墨のようにほどけて消えた。
静寂が落ちた。
さっきまで耳の奥を引っかいていた不快なざらつきが、ようやく薄れる。鬼の残滓が消えた証だ。路地の誰もがすぐには動けず、助かったという安堵と、ほんの少し遅ければ取り返しがつかなかったという震えの間で息を止めていた。
ハディジャの腕の中で、ミオと呼ばれた男の子が、今度こそわっと泣き出す。ハディジャは困った顔で頭をかき、ぎこちなく子どもを母親へ返した。
「ほら、無事。泣くのはあとで好きなだけ」
言い方は乱暴なのに、子どもの背を叩く手はやけにやさしかった。
ロビサは息を整えながら、その横顔を見た。鏡に映った不吉な断片は消えていない。けれど目の前の青年は、逃げもせず、真っ先に子どものほうへ走った。
モンシロが石畳へ散った紙片を拾い集める。
「ロビサ」
「はい」
「読めるところだけ読め」
膝をついたロビサは、裂かれた封書の一片を慎重に開いた。上質な紙だ。個人の手紙にしては封蝋も繊維も妙に丁寧で、王城まわりの文書に近い。破れた文字列をつなぐと、ところどころだけ意味が立ち上がった。
――花嫁
――鏡
――百年
喉の奥が冷えた。
その三語は、この都で軽々しく並ぶものではない。まして鬼害現場のすぐそばで出る言葉では、なおさら。
「それ、俺が追ってた封書だ」
ハディジャが覗き込み、ロビサは反射的に紙片を引いた。
「近づかないでください」
「助けた直後にそれか」
「助けたことと、疑いが晴れることは別です」
「面倒くさいな、あんた」
「あなたにだけは言われたくありません」
睨み合ったまま、ほんの一拍。
それでも次に吹いた夜風の中で、ロビサは奇妙な確信を抱いていた。この青年は、今夜かぎりの通行人では終わらない。蒼い鏡が死者より先に映した理由が、きっとある。
路地の奥では、被害者の妻が何度も夫の名を呼んでいる。忘れないために。失わないために。
ロビサはその声を背に、紙片を記録箱へ収めた。
花嫁。鏡。百年。
胸の奥で、その三語が、いやなほどはっきり鳴り続けていた。
そしてその響きの奥には、蒼い鏡が最初に映した青年の顔も、消えずに残っていた。
【終】
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#現代ファンタジー
るるくらげ