テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
黒瀬が連行されていく背中を、久我は廊下の角が見えなくなるまで見送った。
足音は静かで、鎖の擦れる音だけが、やけに大きく響いていた。
――彼ら自身が、空白を選んだ。
その言葉が、頭から離れない。
被害者は守るべき存在だ。選択の余地などなかった、そう信じてきた。
だが黒瀬の語りは、その前提を壊す。
久我はデスクに戻り、失踪者の供述調書を一枚ずつ読み返した。
どれも形式的で、整いすぎている。
家族、職場、友人――「異変はありませんでした」。
その言葉が、まるで誰かに書かされた文章のように見えた。
夜遅く、再び取り調べ室へ向かう。
予定にはなかった。だが、確認しなければならないことがあった。
ドアを開けると、黒瀬は驚いた様子もなく顔を上げた。
「来ると思っていました」
「……君は予言者か」
「共感です」
黒瀬は静かに言う。
「あなたは、空白を放っておけない」
久我は椅子に座り、録音機のスイッチを入れなかった。
業務違反だと分かっている。それでも。
「さっきの話だ。失踪者たちが“選んだ”という点」
「はい」
「彼らは、何を選んだ」
黒瀬は、少しだけ視線を落とした。
それは初めて見る、迷いに近い沈黙だった。
「……話す相手です」
「相手?」
「誰にも言えなかったことを、誰に預けるか」
久我の喉が、わずかに鳴る。
「彼らは、限界でした。
助けを求めても、正しい言葉で返されるだけ 」
黒瀬は淡々と続ける。
「正しい言葉は、人を黙らせる」
久我は、反射的に否定しそうになり、止まった。
胸の奥に、痛みが走る。
「……君は、その“聞き役”だったのか」
「役ではありません」
黒瀬は首を横に振る。
「ただ、否定しなかった」
「それだけで、人は消えるのか」
「消えません」
即答だった。
「でも、戻れなくはなる」
久我は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「君は……彼らを、救ったつもりか」
黒瀬は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「救いという言葉は、あなたのものです」
久我は、その距離感に、思わず苦笑しかけた。
「では、君自身はどうなんだ」
「何がですか」
「君も、誰かに話を聞いてほしかった側じゃないのか」
黒瀬の視線が、初めて揺れた。
ほんの一瞬。だが、確かに。
「……だから、分かる」
低い声だった。
「共感は、感情ではありません。
構造です」
久我は、その言葉を反芻する。
「構造?」
「孤立して、声を失って、最後に“選ぶ”」
黒瀬は久我を見た。
「あなたも、同じ構造の中にいる」
久我は、無意識に拳を握りしめていた。
「……私は、彼らとは違う」
「ええ」
黒瀬は静かに頷く。
「あなたは、まだ戻れる」
その言い方が、妙に優しかった。
「だからこそ、あなたは苦しい」
久我は、視線を机に落とした。
正義の側にいるはずなのに、
なぜか、自分のほうが“試されている”感覚がある。
「黒瀬」
初めて、呼び捨てにした。
黒瀬の目が、わずかに見開かれる。
「君は、私に何をさせたい」
黒瀬は、少しだけ口角を上げた。
「何も」
そして、続ける。
「ただ、あなたが“共感した”ことを、忘れないでほしい」
久我は、立ち上がった。
これ以上、ここにいれば、踏み越えてしまう。
ドアを開ける直前、背後から声が届く。
「久我さん」
振り返らなかった。
「共感は、罪になります」
久我は、一瞬だけ目を閉じ、ドアを閉めた。
廊下の冷たい空気の中で、
彼は理解していた。
すでに自分は、
被疑者ではなく、
人間として黒瀬を見てしまったのだと。
その共感が、
この先、どれほどの代償を要求するのかも知らずに。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
207