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依頼は、いつもより静かに始まった。
真琴が応接室で依頼人の話を聞いている間、伊藤は事務室で一通の封筒を開けていた。
中に入っていたのは、コピーされた裁判記録だった。
ページ数が、異様に少ない。
伊藤は眉をひそめることなく、淡々と確認する。
判決文。
概要。
結論。
必要最低限。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……短いな」
声に出したのは、独り言に近かった。
応接室では、依頼人が緊張した面持ちで座っている。
五十代後半の女性。
派手さはなく、疲れだけが残ったような表情だった。
「裁判は、確かに行われました」
女性は、指を組みながら言った。
「でも……あまりにも、何も残っていないんです」
「判決に、不満があるわけでは?」
真琴が、やわらかく尋ねる。
「ええ。結果は、受け入れています」
女性は首を振った。
「ただ……その過程が、どこにもない」
事件は、十年以上前。
地方で起きた傷害事件だった。
加害者は有罪。
量刑も妥当。
控訴もなく、すでに服役も終えている。
――何も問題がない。
それが、表向きの結論だった。
だが、依頼人は続ける。
「新聞記事が、見つからないんです」
「当時、確かに報道はありました。短くても、載っていたはずなのに」
玲が、静かにメモを取る。
「地方紙も含めて、ですか」
「はい」
「図書館にも、データベースにも、ない」
燈が眉間に皺を寄せた。
「古い事件なら、消えることもあるだろ」
「……全部、ですか?」
澪が、ぽつりと口を挟んだ。
依頼人は、その言葉にわずかに反応した。
「ええ。まるで、最初から話題にならなかったみたいに」
伊藤が、裁判記録を持って応接室に入ってくる。
「失礼いたします」
全員の前に、書類を置く。
「こちらが、当該事件の判決文です」
伊藤は敬語で、淡々と説明した。
「内容に不自然な点はありません。ただ……」
ページをめくる。
「理由の記載が、極端に簡略化されています」
「事実認定も、証拠の列挙も、最小限です」
玲が視線を落とす。
「確かに……通常より、かなり短い」
「こういう判決文は、存在しなくはありません」
伊藤は穏やかに続ける。
「ただ、珍しい部類ではあります」
真琴が依頼人を見る。
「それで、私たちに何を?」
女性は、少し迷ってから答えた。
「この事件が、ちゃんと“あった”のかを、確かめてほしいんです」
沈黙が落ちた。
燈が低く言う。
「裁判記録がある時点で、あったに決まってるだろ」
「……それでも」
女性は言葉を選ぶ。
「私の記憶の中の出来事と、記録の中の事件が、噛み合わない」
澪は、その言葉に、微かに息を止めた。
記憶と記録。
ここまでの事件で、何度も出てきた組み合わせだ。
真琴は、静かに頷いた。
「分かりました。調査します」
依頼は成立した。
依頼人が帰ったあと、探偵社に残ったのは、いつもの五人。
燈が腕を組む。
「今回は、何を調べるんだ? 裁判も終わってるし、犯人もはっきりしてる」
「報道と、記録の空白」
玲が答える。
「それから、当時の関係者」
「噂レベルでも、洗ってみよう」
真琴がまとめる。
伊藤は、静かに書類を揃えた。
「こっちで、過去の類似事例も確認しておく」
「そんなの、すぐ出てくる?」
燈が聞く。
「ああ」
伊藤は微笑んだ。
「探せば、意外と」
澪は、そのやり取りを黙って聞いていた。
裁判記録は、確かに存在する。
だが、事件の“重さ”が、どこにも残っていない。
まるで、
必要な分だけを切り取って、後は削ぎ落としたように。
澪は、ファイルの背表紙を指でなぞった。
これは――
消された事件だ。
まだ、誰もそう口にしていないだけで。
事件は、静かに動き始めていた。