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スタジオはいつもより暗かった。撮影がすべて終わり、スタッフも全員帰った後。
照明は一つだけ、天井から落ちる弱い白。影が揺れて、空気が妙に静かだった。
柳瀬は機材を片づけながら、ふと泉に視線を向けた。
「……表情の練習、まだ足りてないな」
言葉は淡々としているのに、有無を言わせない温度があった。
泉は思わず背筋を伸ばす。
「今、ですか……?」
「ほかに誰が残ってる。座れ」
指示はいつも通りだが、距離が違った。
柳瀬は泉の椅子のすぐ後ろに立ち、わずかに腰を屈める。声が落ちる場所が近すぎる。
「正面向け」
泉は顔を上げる。
暗い中で、柳瀬の瞳だけが静かに光っていた。
触れられていないのに、頬が熱い。
見つめられ続けるほど、呼吸の仕方さえわからなくなる。
柳瀬はわずかに目を細めると、低く呟いた。
「……逃げんな」
その声が、耳の真横だった。
泉は反射的に肩をすくめる。
触れていないはず。けれど、声が皮膚に触れたような錯覚に陥る。
喉が勝手に鳴る。息が止まらない。
「目、逸らすな」
言われるたびに、泉の視線は戻される。
柳瀬の目が近い。吐息がかすかに頬を掠めた気さえする。
少しでも視線を落とすとーー
「……今の、弱い」
と切り捨てるように囁かれ、泉の心臓は跳ねた。
「ど、どこが……」
「全部だよ。意識が散ってる」
柳瀬の影が揺れ、泉の膝の近くに落ちる。
距離を詰めているのに、手はどこにも触れない。それなのに、触れられたとき以上に体が反応する。
柳瀬は泉の頬の横に手を置く。触れていない。
けれど、その指先が髪に触れる“直前”で止まり、泉の全神経がそこへ吸い寄せられた。
「……ほら、声、出そうになってる」
囁きは低く、温度を帯び、まるで泉の喉の内側まで届くようだった。
泉は思わず唇を噛む。
声なんて、出してない。けれど、呼吸が乱れているのは自分でもわかる。
「……な、出てません」
「言い訳する時点で出てる」
柳瀬が口の端で笑う。
ただそれだけなのに、泉の腹の奥がずくりと熱くなった。
「……だめだな。表情、完全に潰れてる」
「ち、近いから……」
「近い方が分かりやすい」
柳瀬はさらに傾く。
泉の膝に柳瀬の太ももが触れるか、触れないかーーその程度の距離。“意図的な寸止め”。
泉は呼吸を乱しながら、必死に口を閉じる。
声を漏らしたら、何かが決壊してしまう気がした。
「ほら、顔上げろ」
柳瀬の手は触れない。ただ指が空気をかすめるたびに、泉の皮膚が反応する。
「この距離で崩れるなら、本番どうするんだよ」
「柳瀬さんが……近いから……」
「俺のせいにするな。反応してるのは、お前だろ」
耳の横に落ちた声が、あまりにも深かった。
泉はどうにか呼吸を整えようとするが、逆効果で胸が上下する。
その震えさえ、柳瀬に全部見られている。
逃げられない。
それなのに、逃げたくないという別の感情まで湧いてくる。
自分でも理解できない熱が、ゆっくりと身体の奥を広がっていく。
最後に柳瀬は泉の顔を一度だけじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「……まあ、いい。今日はここまで」
触れなかった。
けれど泉の身体は、触れられた後のように火照っていた。
柳瀬は照明を消しながら、振り返りもせず言った。
「明日も付き合えよ。……逃げんなよ、泉」
その声だけが、暗いスタジオに落ちて残った。