コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
スタジオの休憩スペースは、いつもよりざわついていた。
泉が通ると、数人のモデルがこちらを振り返り、小声で何かを囁き合った。
「ねえ、見た? 柳瀬さん、泉にだけ厳しくない?」
「厳しいっていうか……あれ、優しさじゃないの?」
「いや、あんな距離、普通は取らないでしょ」
聞こえていないふりをしたが、泉の耳には全部刺さっていた。
優しい……?
いや、違う。あれは優しさとは真逆だ。
けれど、説明できる言葉もない。
「泉」
名前を呼ばれ、振り返ると柳瀬が立っていた。
いつもの無表情。けれど、どこか機嫌の悪い湿った気配が滲んでいる。
「……さっきの噂、聞いたか」
「え、いや……その……」
答えるより早く、柳瀬は泉の腕を軽く掴んだ。
痛くはない。けれど、逃がす気がない握りだった。
「ちょっと来い」
短く言うと、そのまま休憩スペースを出て廊下へ。
壁際に泉を立たせ、自身は正面に立つ。
ただ立っただけなのに、逃げ道がなかった。
触れていない。
だが、柳瀬の体温だけが壁際の空気をゆっくりと満たす。
柳瀬は低く言った。
「……優しいって、俺が?」
「ち、違います。俺、何も言ってません。みんなが勝手に……」
泉が必死に言い訳を並べると、柳瀬の手が壁の横に落ちた。
“壁ドン”ではない。
ただ、泉の耳のすぐ横に掌を置かれただけ。
けれど、空気が変わった。
泉の肩が震える。
柳瀬はすぐ目の前で、息を落とした。
「優しさなんかで、お前を動かせるわけないだろ」
低く、明確に、感情を押し殺した声。
それなのに、距離だけがやけに近い。
「俺が優しくしてるように見えたか?」
「み、見えてないです……そんな……」
「じゃあなんで、噂になってんだよ」
柳瀬の顔が少しだけ近づく。
触れないのに、泉の胸が押されるような圧があった。
細く吸った息が、柳瀬に全部聞かれてしまう。
「……やっぱり、お前のせいだな」
「えっ……お、俺?」
「その顔で立ってるからだよ」
意味がわからない。
そう言おうとした瞬間、柳瀬の指が泉の顎の“すぐ横”をなぞる。
肌には触れない。
触れないのに、泉の喉が鳴った。
柳瀬の指先が空気を裂くように顎のラインをなぞり、寸前で止まる。
「そんな顔で、俺の名前呼んだりするな」
「呼んで、ない……」
「声になってなくても、顔に出てる」
泉は反論できなかった。
柳瀬の顔が近い。
鼻先が触れるか触れないか、その距離。
触れてほしいと、思ってしまった。
そんな自分に気づいて、息が乱れる。
「……泉」
名前を呼ばれただけで、背中が跳ねた。
柳瀬は目を細め、かすかに笑った。
その笑いが、冷たいはずなのに熱かった。
「誤解されてもいいけどな。俺は気にしない」
「気にしないんですか?」
「……俺が気にしてんのは、お前だけだ」
その一言に、泉の鼓動が一瞬止まる。
言葉の意味を理解するより、距離の近さが頭を支配していた。
「怖い顔、してますよ……」
ようやく絞った声も震えていた。
柳瀬は笑うでも怒るでもなく、淡々と言った。
「機嫌が悪いんだよ。……お前のせいでな」
囁きは耳のすぐ裏をかすめ、泉の膝がわずかに崩れた。
柳瀬はそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
触れていないのに、逃げられない距離。
むしろ、逃げるという選択肢そのものが、もう残っていない。
「行くぞ。仕事だ」
いつものトーンに戻ると、柳瀬は泉から離れた。
けれど、泉の身体はまだ壁に押し付けられたままのように動けなかった。
距離が離れても、熱だけが残った。
そして泉は気づく。
噂のせいで距離が曖昧になったんじゃない。
曖昧にしたのは、柳瀬自身だ。