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三文小説
スタジオの休憩スペースは、いつもよりざわついていた。
泉が通ると、数人のモデルがこちらを振り返り、小声で何かを囁き合った。
「ねえ、見た? 柳瀬さん、泉にだけ厳しくない?」
「厳しいっていうか……あれ、優しさじゃないの?」
「いや、あんな距離、普通は取らないでしょ」
聞こえていないふりをしたが、泉の耳には全部刺さっていた。
優しい……?
いや、違う。あれは優しさとは真逆だ。
けれど、説明できる言葉もない。
「泉」
名前を呼ばれ、振り返ると柳瀬が立っていた。
いつもの無表情。けれど、どこか機嫌の悪い湿った気配が滲んでいる。
「……さっきの噂、聞いたか」
「え、いや……その……」
答えるより早く、柳瀬は泉の腕を軽く掴んだ。
痛くはない。けれど、逃がす気がない握りだった。
「ちょっと来い」
短く言うと、そのまま休憩スペースを出て廊下へ。
壁際に泉を立たせ、自身は正面に立つ。
ただ立っただけなのに、逃げ道がなかった。
触れていない。
だが、柳瀬の体温だけが壁際の空気をゆっくりと満たす。
柳瀬は低く言った。
「……優しいって、俺が?」
「ち、違います。俺、何も言ってません。みんなが勝手に……」
泉が必死に言い訳を並べると、柳瀬の手が壁の横に落ちた。
“壁ドン”ではない。
ただ、泉の耳のすぐ横に掌を置かれただけ。
けれど、空気が変わった。
泉の肩が震える。
柳瀬はすぐ目の前で、息を落とした。
「優しさなんかで、お前を動かせるわけないだろ」
低く、明確に、感情を押し殺した声。
それなのに、距離だけがやけに近い。
「俺が優しくしてるように見えたか?」
「み、見えてないです……そんな……」
「じゃあなんで、噂になってんだよ」
柳瀬の顔が少しだけ近づく。
触れないのに、泉の胸が押されるような圧があった。
細く吸った息が、柳瀬に全部聞かれてしまう。
「……やっぱり、お前のせいだな」
「えっ……お、俺?」
「その顔で立ってるからだよ」
意味がわからない。
そう言おうとした瞬間、柳瀬の指が泉の顎の“すぐ横”をなぞる。
肌には触れない。
触れないのに、泉の喉が鳴った。
柳瀬の指先が空気を裂くように顎のラインをなぞり、寸前で止まる。
「そんな顔で、俺の名前呼んだりするな」
「呼んで、ない……」
「声になってなくても、顔に出てる」
泉は反論できなかった。
柳瀬の顔が近い。
鼻先が触れるか触れないか、その距離。
触れてほしいと、思ってしまった。
そんな自分に気づいて、息が乱れる。
「……泉」
名前を呼ばれただけで、背中が跳ねた。
柳瀬は目を細め、かすかに笑った。
その笑いが、冷たいはずなのに熱かった。
「誤解されてもいいけどな。俺は気にしない」
「気にしないんですか?」
「……俺が気にしてんのは、お前だけだ」
その一言に、泉の鼓動が一瞬止まる。
言葉の意味を理解するより、距離の近さが頭を支配していた。
「怖い顔、してますよ……」
ようやく絞った声も震えていた。
柳瀬は笑うでも怒るでもなく、淡々と言った。
「機嫌が悪いんだよ。……お前のせいでな」
囁きは耳のすぐ裏をかすめ、泉の膝がわずかに崩れた。
柳瀬はそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
触れていないのに、逃げられない距離。
むしろ、逃げるという選択肢そのものが、もう残っていない。
「行くぞ。仕事だ」
いつものトーンに戻ると、柳瀬は泉から離れた。
けれど、泉の身体はまだ壁に押し付けられたままのように動けなかった。
距離が離れても、熱だけが残った。
そして泉は気づく。
噂のせいで距離が曖昧になったんじゃない。
曖昧にしたのは、柳瀬自身だ。
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