テラーノベル
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腕を掴まれたまま、外気と日の光が急に遮られる感覚。俺は無理やり立たされ、足元がおぼつかない。晃司の手は硬く、指の跡が腕に残る。友人たちが後ろで笑いながら、俺の身体を引っぱるようにして歩かせる。
「おい、早くしろよ。晩飯の時間だ、役立たずはさっさとやらせねぇと」
晃司の声は皮肉に満ちているが、目の奥は収まらない怒りで揺れている。
「ご、ごめんなさい……」
何度も声が出るが、謝罪の言葉は空返事にしかならない。謝ることで終わるものなら、と胸が裂けそうになる。
家の扉が開いた瞬間、空気が変わった。リビングの灯りが俺の顔を照らし、怜央菜と沙耶香がソファから立ち上がる。誰も驚いたり止めたりはしない。まるでこれが日常だと言わんばかりに、彼らは待っていた。
「おかえりー、晃司」
怜央菜の声はのんびりしている。だがその平静がさらに冷たく感じられる。
「連れてきたぞ。こいつの反抗、見てくれよ」
晃司が言うと、友人の一人がニヤリと笑って俺を押し出した。
俺はリビングの中央に突っ立てられた。買い物袋の中身は床に散らばり、袋が破れ、食べ物が転がる。誰かが袋の中のパンを踏み、ぐにゃりと潰す音がした。俺は思わず手を伸ばし、それを抑えようとして更に一発、背中に蹴りを食らう。
「おい、触るなって言っただろ! 何度言わせりゃわかるんだ」
晃司の声が鋭く刺さる。彼の手が再び俺の首筋を掴んで、力を込める。息が詰まりかけ、目の前が薄く白んだ。掴まれているのは首じゃない、もっと深いところ──自分の居場所と価値だった。
「この家のルール、忘れたのか?」
晃司は問いかける。返す言葉などない。俺はただ震えながら首を小さく振る。だがそれすら、彼には腹立たしいらしい。
晃司はとにかく機嫌が収まらない。友人たちもそれを受け、遊び半分がそのまま暴力に変わる。リビングのテーブルに押し倒され、拳が腹や背中に叩きつけられる。痛みが内側からこみ上げて、息を吸うたびに体のどこかが悲鳴をあげる。
「今日は徹底的にやる」
晃司が低く言うと、怜央菜が淡く笑って頷く。言葉のやり取りに、俺の存在が小さな演目の一部であることが浮き彫りになる。誰も「やめろ」とは言わない。誰も俺の名前を呼んで安心させたりはしない。
晃司は台所の方へ行き、何かを取り出して戻ってきた。包丁が見えた瞬間、俺の血の気が引く。刃物を使うことを示唆するのではなく、包丁は単に俺の恐怖を引き伸ばすための小道具だ。彼は包丁を軽く俺の前に置き、刃先を指でなぞるようにして見せた。
「犬のことを思い出せよ。お前が守れなかったって、ずっと覚えとけ」
晃司の声には親しみがない。俺は肩で息をする。返す言葉はない。自分を責める声だけが喉の奥で繰り返される。
そこからの時間は、音が乱れるように断片化していく。誰かが俺の耳元で何かを囁き、誰かがスマホを向けて笑う。晃司は俺の顔を掴み、無理やり正面を向かせると、食卓に跪かせた。膝をついたまま、俺はテーブルの端に頭を突っ伏した。手は後ろで縛られているような感覚だ。実際に縛られているわけではないのに、自由は完全に奪われている。
「まずは掃除だ。床の汚れ、全部舐めて綺麗にしろ」
晃司が命じた。耳を疑う。友人たちが顔を見合わせ、小さく笑う。屈辱の種類が、一段と深まるのを感じる。俺は顔を上げる力もない。だが子犬のことが頭をよぎる。あいつを守れなかったこと、それがどうしても胸を締め付ける。
「や、やらない……」
かすれた声が出る。言葉が出るたび、何かが壊れていく気がした。晃司の顔がゆがみ、ゆっくりと拳を握る。
「いいのか?」
その問いは脅しではなく約束のように聞こえた。
友人の一人が無造作に懐から手袋を取り出し、「やらせてみようぜ」と言った。手袋をはめられた手で、俺の下顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。床の上のパン屑や泥を指で押し付けられ、「舐めろ」と短く命じられる。俺は首を振る。振るたびに、掌が顔面に打ちつけられる。
「やれ」
晃司の命令はシンプルで絶対だ。恐怖と恥で胸が引き裂けそうになるが、屈辱に屈服することだけが、子犬がどうなったかの痛みを和らげる唯一の手段に思えてしまう。俺は膝を震わせながら、顔を傾けて舌を出す。冷たく、湿った床の感触が唇に触れ、心が深く抉られる。友人たちは笑い、スマホが赤い光を放つ。
俺が舐めている間、晃司は冷たい手で俺の肩を叩き、声を荒げる。
「これでわかったか? お前は役立たずだ。家のゴミだ。外でも中でも同じだ」
言葉は刃物のように刺さる。俺の中で、自己嫌悪の炎が燃え上がる。自分を責める声はますます大きくなり、反撃する気力は抜け落ちていく。
やがて、晃司は勝ち誇ったように後ずさり、友人たちと肩を叩き合う。彼らの笑い声が部屋に満ち、俺は床にへたり込む。体中の痛みと羞恥が混ざり、世界はぐにゃりと歪む。だが、最も深く刺さっているのは――あいつを守れなかったという事実だ。
俺は唇を震わせながら、泥水とパン屑の混ざった味を口の中で転がす。恥と自己嫌悪が、痛みと同じだけ確かな現実として重くのしかかる。晃司たちは満足そうに去り、家の空気はまたいつものように戻る。だが戻ったのは、外見だけ。俺の内側には、崩れ落ちた何かが新しく刻まれていた。
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