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空欄のまま残していた枠へ、最初に足を向けたのはハルティナだった。
「え、私?」
自分で一番驚いた顔をしている。
だがトゥランは真顔で頷いた。
「いつも人の背中押してるから、自分のも一回やって」
橋の上へ立ったハルティナは、最初こそ笑っていたが、拡声器を握る指は白くなっていた。
「私、助けてって言うの、わりと平気です」
観客の中からくすっと笑いが漏れる。
「でも、助けてもらったあとに、ちゃんと返せてるかは、ずっと自信ないです」
橋の上を風が抜けた。
彼女は照れ隠しみたいに一度笑ってから、はっきり続ける。
「だから今日は言います。今ここにいる人、私もちゃんと支えます。借りっぱなしで終わりません!」
言い切った瞬間、シェルター側の面々から大きな拍手が起きた。ハルティナは顔を真っ赤にして飛び降りるみたいに戻ってきて、ホレの後ろへ隠れる。
次に上がったのは、家業を継ぐか悩んでいる女子生徒だった。
「パン屋が嫌いなわけじゃないです。でも、嫌いじゃないと好きの違いが分かんなくて困ってます!」
会場が笑う。けれど、その笑いは馬鹿にするものではなかった。
自分にもそんな迷いがあったと、観客の顔が物語っている。
続いて、サッカー部をやめたい一年生、弟の世話ばかり押しつけられて腹が立っている姉、絵を描きたいのに誰にも見せられない少年。
叫びは順に橋へ置かれ、そのたびに空気は少しずつ変わっていった。
笑いが起こる。
そのあと、必ず小さな拍手が続く。
ただ騒ぐだけの場ではなくなっているのを、ニカットも認めざるを得なかった。
その時、トゥランが最後の枠のところで動きを止めた。
観客も、演者たちも、自然とその沈黙を見守る。
トゥランは橋の中央へ出た。
拡声器を持つ手が震えている。
「俺、ずっと知らなかったことがあります」
ざわめきが止む。
デシアの指がぎゅっと組まれ、サベリオは欄干の陰で呼吸を止めた。
「昔、ここで、誰かが俺を守ってくれたらしいです」
トゥランの声は最初小さかった。けれど、自分で自分の声を押すみたいに、少しずつ前へ出す。
「なのに俺、その人が悪者みたいに言われてたの、何も知らなくて、何も返せなくて」
観客が静かになる。
誰のことか、具体的には言っていない。それでも、言葉の温度で分かることがある。
「だから今日、俺は黙ってるのやめます。橋の上から言います。守ってもらった側が何も言わないの、もう嫌です!」
最後の一文は、橋の向こうまで飛んだ。
拍手はすぐには起きなかった。
代わりに、一瞬の静寂が降りる。言葉が人の胸へ落ち切るための、必要な長さの静けさだった。
そのあと、下から一つ、また一つと手が鳴る。
最初に叩いたのはダニエロだった。次にヌバー。ミゲロ。ホレ。ハルティナ。遅れて、見知らぬおばあさん。買い物袋を提げた会社員。高校生たち。
いつの間にか橋の上下が、拍手でつながっていた。
デシアは震える息を吐いた。
その隣で、サベリオは何も言わない。だが視線だけは、橋の中央に立つトゥランから逸らせなかった。
トゥランが戻ってきた時、目は赤かった。それでも口元は、泣き崩れる前の人の顔ではなく、何かを渡し終えた人の顔になっていた。
ニカットは腕時計を見て、終了時刻を確認する。
時間はきっちり守られていた。苦情も事故もない。なのに予定表には載っていないものが、橋の上へ確かに残った。
帰り際、観客の一人が呟く。
「今の子たちのあとなら、芝居も見てみたいね」
その一言を、サベリオは聞き逃さなかった。