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同じ夜、駅前ホールの楽屋では、オートパイロットの稽古が続いていた。
大型モニターに映像のタイミング。舞台装置の昇降予定。照明の切り替え。すべて秒単位で管理され、役者たちは決められた位置へ迷いなく立つ。
外から見れば、完璧だった。
アルヴェは客席中央でその通しを見ていたが、胸の奥だけが少しも晴れない。
パルテナの代役が、正確な声で台詞を言う。映像がぴたりと合う。音楽が盛り上がる。観客が入れば、きっと分かりやすく沸く構成だ。
それなのに、終わった瞬間、誰も息を吐かなかった。
ただ「ミスはなかった」という空気だけが残る。
リヌスが資料を抱えて近づいた。
「今日の通し、九十点」
「残りの十点は」
「人間味」
即答されて、アルヴェは苦笑した。
リヌスはもともとこういう時に遠慮をしない。
「橋の上、見に行ったんだって?」
アルヴェは視線をモニターへ戻す。
「ロヴィーサの記事で気になって」
「で」
「悔しかった」
素直に出た言葉に、自分でも少し驚く。
アルヴェは背もたれへ身を預けた。天井の照明が白すぎて、顔色まで薄く見える。
「向こう、整ってない。段取りも粗い。なのに、声が生きてた」
リヌスが隣の席へ座る。
「こっちは整いすぎた」
「整えるのが仕事だろ」
「整えるために削りすぎたら、自分たちで機械になる」
アルヴェは黙る。
舞台の上では、装置班が次の転換確認をしている。指示が飛び、数字が返り、タイミングだけは少しも狂わない。
その光景を見ながら、橋の上の叫びが脳裏に重なる。あっちは転換表もなく、声の大きさも揃っていなかったのに、終わったあと人の顔が変わっていた。
リヌスが低く言う。
「自動操縦みたいだろ」
アルヴェは返事の代わりに、ゆっくり目を閉じた。
その表現が、あまりに正確だった。
勝つための数字。受けるための演出。安全な盛り上がり。全部必要だ。ここまで来るために、自分もそれを磨いてきた。
だがいつからか、客席へ届く前に、自分の中で何かが死んでいる。
「降りるなら、今だ」
リヌスの声は静かだった。
責めてもいない。慰めてもいない。ただ、決断が遅い男へ、時計を見せるみたいに置いてきた。
アルヴェは目を開ける。
舞台上では代役の役者が、決められた笑顔で手を振っていた。完璧な角度。完璧な明るさ。なのに、その手は誰も掴めない気がした。
「……お前、俺が降りたら回せるか」
リヌスは鼻で笑う。
「回すためにここにいる」
アルヴェはしばらく何も言わなかった。
ホールの外では、もう夜風が強いはずだ。橋の上では、さっきまで若い声が飛んでいた。その空気を見たあとで、この部屋の密閉された正しさは息苦しい。
「俺、勝ちたいんじゃなくて」
そこで言葉が止まる。
何をしたかったのか、自分で整理がついていない。
リヌスは助け舟を出さない。その代わり、最後にひとつだけ言う。
「逃げるために降りるなよ」
アルヴェは小さく笑った。
その忠告が必要なくらい、自分が迷っていることを認めるしかなかった。
楽屋の外で、次の通し開始を知らせるベルが鳴る。
けれどアルヴェは、すぐには立ち上がれなかった。