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縁側の下で、虫の声が絶え間なく続いていた。けれど遥は耳を澄ませてはいない。ただ俯き、膝にかけた手を固く握りしめていた。
そのとき、家の奥から乾いた笑い声が漏れた。
高くも低くもない、押し殺したような声。兄弟のものだとすぐに分かった。
遥の肩がわずかに跳ねる。
表情は動かないのに、血の気だけが一気に引いたようだった。
日下部は息を止めた。
知っている――遥の家の事情は。
表面上のきれいごとで覆われた日常の下に、暴力と嘲りが根を張っていることを。
けれど、こうして音に触れると、その「知っている」は無力に感じられた。
今、目の前で震えている遥を前にして、自分は何ひとつ届かせられていない。
「……中、俺も入ろうか 」
気づけば声が出ていた。
掠れているのは怒りか恐怖か、自分でもわからない。
遥はすぐに顔を上げ、鋭く首を振った。
「来るな」
囁きとも叫びともつかない声。
「でも――」
日下部が一歩踏み出しかけた瞬間、遥の手が袖を掴んだ。
裸足のままの指先が強く食い込む。
「頼む、入るな。……今は、だめだ」
拒絶ではなかった。
必死の懇願だった。
日下部の胸が締めつけられる。
わかっている。
遥がここまで怯えるのは、家の奥に潜むものが単なる兄弟のいざこざなんかじゃないと、もうずっと前から知っている。
だが――それでも――。
「じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ」
吐き出すように言葉がこぼれた。
「見てるだけか? お前がこうやって震えてんのに、俺は……」
遥は顔を伏せ、口を噛んだ。
「……そうだよ」
その声は、崩れ落ちるように小さかった。
「見てるだけでいい。……それ以上は、要らない」
「要らないって……俺は」
日下部は拳を握った。
「俺は、ずっと放っとけなかったんだ。お前が壊れてんの、ずっと」
家の奥で何かが落ちる音が響いた。
ガラスか、木の器か。
続いて低い声。兄弟の誰かが、押し殺した罵声を吐いたのだろう。
遥の背がびくりと震え、袖を掴む手にさらに力がこもる。
「……聞こえるだろ。だから……だからだめなんだ」
かすれた囁きが夜気に滲む。
「お前まで、巻き込まれる」
その言葉に、日下部の心臓が軋んだ。
遥は自分を守るためじゃない。日下部を守るために拒んでいる。
そんな理不尽な優しさが、余計に苦しかった。
「……俺は、巻き込まれてもいい」
必死に言った。
「お前ひとりで抱えてんのを、これ以上見てらんねえ」
遥は頭を振る。
闇の中で月明かりが頬に当たり、かすかに光る涙を照らした。
「だめなんだよ。……俺がどれだけ汚くなっても、お前だけは……」
そこから先の言葉は喉に詰まり、声にならなかった。
沈黙が落ちる。
虫の声、木の葉のざわめき、そして家の中から響く気配。
どれもが夜をさらに重たくする。
日下部は奥歯を噛みしめ、もう一度踏み込もうとした。
だが、そのとき遥が袖を離さずに首を振った。
涙に濡れた目で、ただ「やめて」と訴えていた。
――今、無理に入れば遥を守れるのか。
それとも、遥をさらに追い詰めるだけなのか。
答えは出なかった。
「……わかった」
日下部はやっとの思いで囁いた。
「けどな、遥。俺はもう知らないふりしねえ。……何度拒まれても」
遥の目が揺れる。
痛みと諦めと、わずかな光が混ざった複雑な色。
それでも彼はうつむき、小さく頷くことしかできなかった。
夜気は重く、遠くで犬の吠える声がした。
二人はただ縁側に並んで座り、暗い家を背にしながら、答えのない沈黙を分け合っていた。