テラーノベル
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教室の空気は、最初から整えられていた。ざわつきはある。けれど、それは崩れているのではなく、むしろ揃っている。誰かが笑い、誰かが机を指で叩き、誰かが何かを待っている。そのすべてが、同じ方向を向いていた。
中央に立たされているのは、遥だった。
黒板の前。逃げ場のない位置。後ろには板書の跡が残り、前には視線がある。左右には席が並び、そこに座る全員が、こちらを見ているか、見ていないふりをしている。
見ていないふりの方が、むしろ正確だった。視線は逸らされているが、意識は逸れていない。すべてが、ここに向けられている。
「でさ、これって普通に考えておかしいよねって話なんだけど」
声は軽かった。説明の導入のような調子で、誰かが口を開く。
「別にさ、いじめとかそういうのじゃなくて、ちゃんと直した方がいいよって話をしてるだけだから。そこ勘違いしないでほしいんだよね」
周囲が小さく笑う。
否定の形を取った言葉は、そのまま肯定として機能していた。
遥は何も言わない。
言う必要がないと、もう分かっている。
説明は意味がない。言葉は、空気を変えない。むしろ、変えようとした瞬間に、そのこと自体が「間違い」になる。
「前から思ってたんだけどさ、お前って空気読めてないよね。読めてないっていうか、読もうとしてないっていうか」
別の声が続く。
「みんながなんとなく合わせてるところで、一人だけズレるからさ、それで変な感じになるんだよ」
「そうそう、誰も言わないだけでさ、正直みんな思ってるよ」
「いや、言ってるけどね。もう」
笑いが重なる。
軽く、断続的に。
そのどれもが強くはないのに、積み重なると重さになる。
遥は、自分の立っている場所を意識していた。
床の感触。靴底の薄さ。わずかな揺れ。逃げ場がないという事実よりも、ここに立っている理由の方が、はっきりしている。
自分が悪いから。
その前提がある限り、状況は説明できる。
だから、疑問は浮かばない。
「さ、だからさ、これはちゃんとしないとダメだと思うんだよね。別に責めてるわけじゃないんだよ。ただ、このままだと困るじゃん。お前も」
“お前も”。
その言葉が、わずかに強調される。
配慮の形を取った圧力。
逃げ道のように見えて、逃げ道ではない。
「今ここでさ、どう思ってるか言ってよ。自分がどういうことしてるか、ちゃんと分かってるかどうか」
視線が一斉に集まる。
さっきまで逸らされていたものが、今は明確に向けられている。
求められているのは答えではない。
確認だ。
すでに決まっている認識を、本人の口からなぞらせるための。
遥は、口を開く。
喉が少しだけ引っかかる。声を出す前の、その一瞬。
空気が、待つ。
「……自分のせいで、空気を悪くしてるって思う」
言葉は途切れなかった。
途切れないようにした。
途中で止まると、それだけで余計な意味が生まれる。
「周りに合わせられてなくて、結果的に迷惑かけてると思う」
教室のどこかで、小さく「うん」と声が漏れる。
肯定の音。
それが、評価になる。
「だから、直さないといけないと思ってる」
言い終えたあと、静けさが落ちる。
完全な沈黙ではない。呼吸や椅子の軋みがある。けれど、言葉はない。
その数秒が、判定の時間だった。
「ほら、分かってるじゃん」
最初の声が、軽く言う。
「最初からそう言えばいいんだよ。変に黙ったりするから、余計に面倒になるんだって」
「てかさ、ちゃんと分かってるならさ、次から気をつけてよ。毎回こうなるの、正直ダルいし」
「お前のために言ってるんだからさ、そこは理解してほしいよね」
“お前のため”。
繰り返される。
それが免罪符になる。
誰も悪くない形を保ったまま、全員が加担できる言葉。
遥はうなずかない。
うなずく必要もない。
言葉はもう出した。
それで十分だと、空気が判断している。
「あとさ、謝った方がよくない?」
別の声が差し込む。
「一応さ、みんなに迷惑かけてるわけだし」
すぐに賛同が重なる。
軽く、自然に。
提案という形を取りながら、選択肢は一つしか残されていない。
遥は、少しだけ視線を下げる。
床ではなく、その手前。誰かの靴の先が見える位置。
そこに向かって、言葉を落とす。
「……ごめん。これから気をつける」
教室の空気が、わずかに緩む。
張り詰めていたものが解けるのではなく、目的を果たした後の、安定に近い緩み。
「はい、じゃあいいんじゃない」
「次から頼むよ、ほんと」
「もうこういうの無しでいこう」
終わりの合図が、誰からともなく出される。
誰も指示していないのに、全員が理解している。
役割が終わった、ということを。
遥は、その場に立ったまま数秒遅れる。
動くタイミングが、わずかにずれる。
そのずれを、自分で認識する。
――遅い。
そう思う。
すぐに席に戻る。
椅子を引く音が、他の誰かと重ならないように、小さくなる。
ノートを開く。
次の授業の準備をするふりをする。
周囲はすでに別の話を始めている。
笑い声が戻る。
さっきまでのことは、終わったこととして処理されている。
継続しているのは、遥の中だけだった。
(やっぱり、自分が悪い)
思考は、静かにそこへ戻る。
疑いはない。
もし違うと考えれば、その瞬間にまた空気が歪む。
それだけは、避けなければいけない。
だから、考えない。
考えないことで、保たれる。
教室の均衡と、自分の位置が。
黒板の前に立っていた感覚だけが、まだ体に残っている。
視線の重さと、言葉の順序と、間違えなかったことへの安堵。
正しく答えられた。
だから、今回はこれで済んだ。
それだけが、確かな事実として残る。
そして、その基準は、次も同じように求められる。
コメント
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リオンです、読了しました。 このエピソード、すごく“息が苦しくなる”描写ですね。教室の空気が「整えられている」と地の文が言い切るところからして、もう既に結果が決まっている裁判のような閉塞感があります。否定の形を取った肯定の言葉、免罪符としての“お前のため”、そして確認作業としての謝罪要求——この“空気の言語化”が本当にリアルで、読んでいて胃が重くなりました。遥が「間違えなかった」ことに安堵するところが、余計に痛い。これが続くとしたら、どこかで均衡が崩れるのか、それともこのまますり減るのか。設定の積み方、伏線の置き方に、作者の丁寧さを感じます。
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あも