テラーノベル
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チャイムが鳴る。
六時間目。
教室は静かだった。
教師の声だけが淡々と流れていく。
日下部は黒板を見ていた。
見ているだけだった。
文字は頭に入らない。
視界の端。
窓際。
遥がいる。
ノートを開き、板書を書き写している。
手は止まらない。
姿勢も崩れない。
その姿だけ見れば、何も変わらない。
屋上の出来事なんて、なかったように。
けれど。
日下部は知っていた。
あの日を境に、何も変わっていないわけじゃない。
変わった。
変わってしまった。
自分も。
遥も。
教師が問題を解くよう指示を出す。
教室がざわめき始める。
椅子を引く音。
教科書をめくる音。
誰かが友達を呼ぶ声。
その中で、遥だけは顔を上げない。
一人で問題を解き始める。
誰にも話しかけない。
誰からも話しかけられない。
その距離は、昔から変わらない。
変わらないはずだった。
「日下部」
隣の席の男子が小声で呼ぶ。
「この問題分かる?」
「ああ」
ノートを見せる。
説明する。
相手は「助かった」と笑う。
それだけのやり取り。
なのに。
説明しながら、ふと考える。
遥は。
こうして誰かに「分からない」と言ったことがあるだろうか。
思い出そうとする。
ない。
少なくとも、自分の前では。
困っていても。
黙っていた。
怪我をしていても。
平気だと言った。
大丈夫じゃない時ほど。
「平気」
そう言うやつだった。
昔から。
授業が終わる。
休み時間。
教室が一気に騒がしくなる。
日下部は席を立たない。
遥も立たない。
少しして。
遥がゆっくり立ち上がる。
教室を出る。
日下部は反射的に目で追う。
追ってから、
やめる。
(……まただ)
最近。
無意識に見てしまう。
いるか。
いないか。
そればかり確認している。
自分でも気づかないうちに。
「日下部」
また声をかけられる。
振り向く。
「購買行かね?」
「ああ……悪い」
断る。
立ち上がる。
理由はない。
いや。
ある。
遥が出ていった方向を見てしまった。
そのことを、
誰にも知られたくなかった。
廊下へ出る。
遥の姿はもう見えない。
当然だ。
58
20
数十秒経っている。
追いつける距離じゃない。
なのに。
少しだけ胸の奥がざわつく。
(何やってんだ)
苦笑する。
探すつもりじゃなかった。
本当に。
ただ歩いただけ。
そう言い訳する。
でも。
心のどこかでは分かっている。
探していた。
「いるか」
それだけを。
屋上の日から。
自分は変わってしまった。
守ると決めた。
それは本当だ。
けれど。
それだけじゃない。
目を離したくない。
また同じことが起きるんじゃないか。
そんな考えばかりが先に立つ。
「……違う」
小さく呟く。
監視したいわけじゃない。
縛りたいわけでもない。
ただ。
間に合わなかったら。
その言葉だけが、
何度も頭をよぎる。
廊下の窓から、曇った空が見えた。
雨は降っていない。
それでも。
屋上の日と同じ色をしていた。
日下部は窓に映る自分を見る。
疲れた顔だった。
その顔を見ながら、
ふと、思う。
自分はずっと、
家のことも、
学校のことも、
知っているつもりでいた。
でも。
知っていたのは「起きた出来事」だけだった。
遥が何を考えていたのか。
何を恐れていたのか。
何を諦めていたのか。
そこまでは、
一度も見ようとしていなかったのかもしれない。
その考えは、
胸の奥に重く残ったまま、
チャイムの音にかき消された。
コメント
1件
うわあ……この58話、静かだけどすごく重いですね。日下部が無意識に遥を探してしまう感覚、すごく伝わってきました。屋上の出来事から「変わってしまった」と自覚しながら、それでも前に進もうともがいてる感じが痛いほど分かる。特に「知っていたのは『起きた出来事』だけだった」って気づきのところ、胸がぎゅっとなりました。ruruhaさんの描く距離感の描写、繊細で大好きです。