相談室のドアは、ノックもなく開いた。
日下部は顔を上げて、来た相手を一度だけ見た。
「空いてる?」
「見ての通り」
相手は曖昧に笑って、椅子に腰を下ろす。鞄は抱えたままだった。
「……別に、死にたいとかじゃないから」
「その前置き、必要?」
「一応」
沈黙が落ちる。時計の秒針がやけにうるさい。
「学校行って、飯食って、寝て。テストも受けてるし、友達とも喋ってる」
「うん」
「なのにさ。ちゃんと生きてるはずなのに、実感がない」
日下部は頬杖をついた。
「生きてる感じがしない?」
「そう。毎日がコピペみたいで。今日が昨日の続きなのか、もう分かんない」
「事故でも起きたら、やっと“生きてる”って思えるんじゃないか、とか?」
一瞬、相手の表情が固まった。
「……それ、たまに考える」
「だと思った」
日下部は淡々と言う。
「実感がないってさ、“刺激が足りない”とかじゃない。たぶん」
「じゃあ何」
「自分がそこにいるって感覚が薄い」
相手は黙ったまま、床を見る。
「やることはやってる。でも“自分がやってる”感じがしない。誰かに操作されてるみたいな」
「……それ」
「心だけ置いていかれてる」
日下部は一度言葉を切った。
「で、こういうとき、大抵の人は“もっと頑張れ”とか“楽しいこと探せ”って言う」
「言われた」
「だろうな」
日下部は小さく息を吐く。
「でも逆だと思う。今は」
「逆?」
「頑張りすぎて、感覚が麻痺してる」
相手が顔を上げる。
「麻痺?」
「ちゃんと生きようとしすぎて。失敗しないように、止まらないように」
「……」
「実感って、余裕がないと戻ってこない」
しばらく、誰も話さなかった。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「一個だけ」
「なに」
「“意味のないこと”をやる」
「意味のないこと?」
「結果が残らないやつ。評価も点数も関係ない」
日下部は指で机を軽く叩く。
「無駄だなって思うことを、自分で選んでやる」
「……それで?」
「“選んだ”って感覚が戻る」
相手は苦笑した。
「サボれってこと?」
「近い」
「高校生が言うなよ」
「高校生だから言う」
少しだけ、空気が緩む。
「実感がないのは、生きてないからじゃない」
日下部は視線を逸らしたまま言った。
「ちゃんと生きてる。でも、自分の分を他人に預けすぎてる」
「……返してもらえるかな」
「取りに行くしかない」
相手は立ち上がり、鞄を持ち直した。
「また来ていい?」
「用があれば」
「冷たいな」
「期待すんな」
そう言いながらも、日下部はドアが閉まるまで視線を下げなかった。
実感は、たぶん静かなところからしか戻ってこない。
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