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相談室のドアは、少しだけ迷ったあとに開いた。
日下部はその音で顔を上げる。
「……どうした」
相手は一瞬立ったまま黙ってから、椅子に座った。
「何が嫌なのか、分かんない」
唐突だったが、日下部は驚いた顔はしなかった。ノートを閉じ、机の端に置く。
「分かんない、って?」
「理由が思いつかない。学校も、家も、別に普通で」
「普通、か」
日下部はその言葉をなぞるように小さく繰り返した。
「でも、なんかずっと気持ち悪い。楽しくもないし、しんどいってほどでもない」
「……曖昧だな」
「うん」
自覚があるのか、相手は苦笑した。
「だからさ、これって甘えなのかなって思って」
日下部はすぐには答えなかった。
窓の外を一度見てから、視線を戻す。
「甘えだと思うなら、ここ来ないだろ」
「……そう?」
「本当にどうでもいいなら、放っとく」
相手は少し驚いたように目を瞬かせた。
「じゃあ、この感じって……」
「嫌なんだろ」
「でも理由が」
「理由なく嫌になることもある」
日下部は言い切るでもなく、淡々と続けた。
「体調悪いときだって、原因分からないまましんどいことあるだろ」
「あるけど」
「それと似てる」
相手はしばらく黙り込んだ。
「……じゃあ、どうすればいい」
「無理に理由つけない」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
日下部は少し言葉を選んでから言った。
「分かんない状態を、悪いもんだと思わないでいればいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
すぐに返した声は、少しだけ強かった。
「分からないまま抱えてるの、結構しんどい」
相手は視線を落とす。
「……ずっと、何か間違ってる気がしてた」
「間違ってるかどうかは知らない」
「即答?」
「即答」
日下部は小さく肩をすくめた。
「でも、違和感あるのに“平気なふり”してる方が、あとで響く」
「……」
「嫌だって感覚は、ちゃんとしたサインだ」
相手は息を吐いた。
「理由なくても?」
「なくても」
「分かんなくても?」
「分かんなくても」
沈黙が落ちる。
さっきより、少しだけ重さが抜けた沈黙だった。
「……また来ていい?」
「来るなとは言ってない」
「それ、許可?」
「必要ならな」
相手は立ち上がり、ドアに手をかけてから振り返る。
「ありがと」
「別に」
ドアが閉まる。
日下部はしばらくその音の余韻を聞いてから、ノートを開いた。
理由が分からないままの感情は、置き去りにされやすい。
それを拾いに来る場所であればいい、と彼は思っているだけだった。