テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昼休みの終わり、廊下の向こうに遥の姿を見つけた瞬間、日下部はほとんど反射で声をかけていた。
「……遥」
いつものように、びくりと肩が揺れるはずだった。
足を止め、怯え、こちらをうかがう――その一連の反応が、ここしばらく続いている“避けられている”サインだった。
だが、今日は違った。
遥は振り返らなかった。
足も止めなかった。
声が届いていないわけではない。
日下部の視線が背中に触れた瞬間、確かに一度だけまばたきをして、しかしそのまま真っ直ぐ教室へ歩いていった。
まるで、恐怖という感情だけが抜け落ちた人形のように。
日下部はその一瞬に、うすら寒い違和感を覚えた。
「……ちょっと待てよ」
早足で追う。
教室の前でようやく追いつき、手を伸ばす寸前で指先が止まる。
無理やり触れれば、それこそ本当に“追い詰める側”になってしまう気がしたからだ。
「遥、話――」
遥がこちらを振り返った。
その目には、怯えも反発も、拒絶すらなかった。
あるのはただ一面の空白。
水に沈んだ石のように、反応という反応が消えている。
「……あの、日下部」
声まで淡い。
呼吸の音に紛れそうなほど細いのに、どこにも震えがない。
「大丈夫。もう……平気だから」
その“平気”は、明らかに平気じゃない人間の口から漏れる、底の抜けた響きだった。
日下部の胸に、ぎゅっと冷たいものが刺さる。
(やばい……これ、こいつ……)
“避ける”ほうが、まだ良かった。
“怖がる”ほうが、まだ救いがあった。
今目の前に立っているのは、恐怖を上回る何かが心を押しつぶし、折れる直前の静けさをまとった遥だ。
「なぁ……ほんとに大丈夫か?」
日下部は、声を落として問う。
遥は首を横にも縦にも振らない。ただ、ぽつりと呟く。
「……迷惑、かけない」
その言葉の奥に、
“かけられない。かける資格がない。かけたら壊される”
そんな諦めが沈んでいた。
日下部は思わず一歩踏み出しそうになる。
けれど遥がそっと視線を落とした瞬間、その足は床に縫いつけられたように動かなかった。
(……違う。これ、逃げてるんじゃない。
もう、怖がる余力すら残ってねぇんだ)
遥は軽く頭を下げ、日下部と視線を合わせることなく教室へ消えた。
扉が閉まる、わずかな音。
一人残された日下部は、喉の奥がひどく乾いていくのを感じた。
「……折れる。あいつ、本当に折れかけてる」
自分の声が、こんなにも低く、震えていることに気づく。
颯馬の挑発、怜央菜の言葉、そして遥の沈黙。
全てが一つの点に向かって収束していく――嫌な確信が日下部の胸のど真ん中で鳴り始める。
放置すれば、もう戻れない。
その直感だけが、火のように強く日下部の背中を押した。
「……行動しなきゃ、ほんとに取り返しがつかなくなる」
呟いた瞬間、胸の奥で何かが決まった。
遥を追うのではなく、
颯馬に負けるのでもなく、
逃げるのでもなく――
“折れかけている遥を、このまま一人にしない”という行動が。