そして倉本は言った。
「辛い話をお聞かせしてすみません。でもまだ続きがあるんです。最後まで聞いていただけますか?」
奈緒は頷くのが精一杯だった。
「二人の関係に気付いた私は、社内で二人を観察するようになりました。するとどう見ても三輪さんの方が積極的で、江崎さんはいつも困っているような感じでした。これは私の勘なのですが、江崎さんは何か三輪さんに弱みを握られている? そんな風に見えました。そんな時、私は社内で二人が話をしているのを聞いてしまったんです」
「聞いたって……何を?」
「私が備品庫に行った時、偶然中に二人がいたんです。私はびっくりして足を止めました。その時に聞いたんです。江崎さんが『二人だけで会うのはもうよそう』って言っているのを」
「…………」
徹の言葉は、これまで何度か二人きりで会っていた事を意味する。
倉本の話がもし本当なら、二次会の後みどりを送って行った徹は、つい魔が差してみどりと深い関係になった。
そして弱みを握られた徹は、それ以降もみどりと何度か会っていた。奈緒にはそんな風に思えた。
奈緒の心には、まるで鋭く尖ったガラスが突き刺さったような痛みが走る。
例え酔った勢いだったとしても、それは奈緒に対する立派な裏切りだ。決して許されるべき事ではない。
しかし今倉本は、徹は奈緒の事を愛していたときっぱり言い切った。それは一体どういう意味なのだろうか?
混乱した頭で必死に考える奈緒の身体が、その時ぐらりと揺らいだ。
「大丈夫ですか?」
「え? ええ、大丈夫よ。続けて……」
そこで倉本は話を続けた。
「江崎さんの言葉を聞いた三輪さんは、『わかったわ』と返事をしていました。でも別れる前に最後に温泉旅行に連れて行って欲しいと江崎さんにせがんでいました。あの事故が温泉地へ向かう途中で起こったと聞いた時、私はもしかしたら二人は別れる前の温泉旅行に向かっていたのかなって思って……。つまり私が言いたかったのは、江崎さんは三輪さんと別れるつもりだったって事なんです! 江崎さんが結婚したいと思っていたのは、麻生さん、あなただったんですよ! 麻生さんは裏切られたって思うかもしれないけど、江崎さんが最後に選んだのは麻生さんなんですっ! 私はそれを伝えたくて……」
倉本は必死の思いで伝えると、突然泣き始めた。
倉本はまるで自分の身に起きた事のように切ない声で泣き続ける。なぜ倉本が涙を流すのだろうと思いつつ、奈緒はそっとハンカチを渡した。
そして一度深呼吸をしてからこう言った。
「倉本さんありがとう。ずっと……ずっとね……考えていたの。なぜ事故を起こした時、助手席に三輪さんがいたのかなって。まあ普通に考えればそういう事なんだろうってわかるんだけど、でもね、出来れば本人の口から聞きたかった。でも二人とももうこの世にはいないでしょう? だから結局聞けずじまいでずっと悶々としていたの。でも、今日倉本さんに教えてもらってやっと真実がわかったわ。ありがとう、倉本さん。あなたには関係のない事なのに、ずっと辛い思いをさせてしまって…….本当にごめんなさい」
「麻生さんが謝る事なんてないですっ! 私……せっかく優しくしてもらったのに……もっと早く麻生さんに知らせておけばってずっと後悔していて……うぅっ……」
そこで倉本はまた激しく泣き始める。
「ううん、いいのよ……もう大丈夫……教えてくれて本当にありがとう」
奈緒は泣き続ける倉本の背中を優しくトントンと叩き続けた。
それからしばらくして泣きやんだ倉本は、涙を拭きながら奈緒に言った。
「江崎さんが麻生さんの事を愛していたのは本当ですよ。だって私、江崎さんを観察するようになってから気づいた事があるんです」
「気付いたって……何を?」
「それは江崎さんが麻生さんを見つめる時の優しい眼差しです。江崎さんはいつも麻生さんを優しい目で見つめていました。あんな優しい眼差しは、心から愛している人にしか向けられないって思いました。だから麻生さんは間違いなく最後まで江崎さんに愛されていたと思います」
その時、こらえていた奈緒の瞳にみるみると涙が溢れてきた。その涙はすぐに頬を伝う。
「ハンカチ汚してしまってスミマセン」
倉本は先ほど奈緒が渡したハンカチを奈緒に返した。そしてベンチから立ち上がると最後にこう言った。
「そろそろ戻りますね。麻生さん、今日は話せて良かったです」
倉本は奈緒に深く一礼をすると、オフィスへ向かって歩き出した。
その瞬間弾かれたように奈緒が叫ぶ。
「倉本さんっ! 話してくれてありがとう!」
足を止めて振り返った倉本は微笑みを浮かべながら再びお辞儀をすると、くるりと向きを変えて歩き始めた。
そこに残された奈緒は、途端に激しく泣き始めた。
こらえようと思ってもこらえきれず、嗚咽を漏らして泣き続ける。その声はどんどん大きくなっていった。
次から次へと溢れて来る悲しみの涙を、奈緒は自分でもうどうする事も出来なかった。
泣きながら奈緒は思った。
徹が急に奈緒にプロポーズをしたのは、みどりとの事があったからなのだ。
結婚に全く興味のなかった徹が急に奈緒に結婚しようと言い出したのは、おそらくみどりとの関係に不安を覚えたからだろう。
そして徹は考えに考えたあげく、最終的に奈緒を選んだ。
そう、きっかけはどうであれ、最終的に徹が選んだのは奈緒だったのだ。
今奈緒は、素直に喜びたい気持ちと徹に対する許せない気持ちが激しく交錯し心の中がかき乱れていた。
最終的に自分が選ばれたという喜びは、徹の裏切り行為による嫌悪感で全て台無しになる。
その時奈緒は気付いた。今の奈緒にはそんな事はもうどうでいい事を。
奈緒が今一番望むのは、今すぐ徹に会いたい、会ってちゃんと話がしたい、そしてきちんと謝って欲しい……ただそれだけだ。
しかしその願いはもう叶わない。そしてこれから先ももう二度と叶う事はないのだ。それに気付いた奈緒は、再び強い絶望感に襲われる。
そして奈緒は徹からもらった指輪を海に捨てた事を今さらながら悔やんでいた。
悔やんだ理由は、あの指輪は徹が本気で奈緒と一緒になりたいと思ってくれた唯一の証しだったからだ。
(ああ……私ったらなんて馬鹿な事をしてしまったの……)
大切なものを何もかも失った奈緒は、更にむせび泣く。
その時突然激しいビル風が吹いて奈緒の泣き声をかき消す。
新緑が美しい木々の葉がサワサワと揺れる音を耳にすると、奈緒は徹と初めてデートをした日の事を思い出した。
たしかあの時もこんな風に新緑が美しい季節だった。
昔を思い出した奈緒の瞳からは、また涙が溢れてくる。
奈緒は光差す鮮やかな新緑に抱かれながら、しばらくその場で泣き続けた。
その後泣きやんだ奈緒がベンチから立ち上がりその場を後にすると、背中合わせに置いてあったベンチから一人の男がムックリと起き上がった。
男は省吾だった。
省吾は日光浴を兼ね、人目につきにくいこのベンチでよく昼寝をしていた。
今日も気持ち良く寝転がっていたら、背後のベンチに奈緒が来て誰かと話を始めた。
(あの指輪はそういう事だったのか)
省吾は腕を組んだまま、しばらくじっと考え事をする。
その後漸くベンチから立ち上がると、会社へ向かって歩き始めた。
その頃、奈緒は秘書室へ戻る前に化粧室でメイクを直していた。
泣き顔は多少ごまかせたが、充血した目はどうにもならない。
奈緒は諦めたようにため息をつくと、そのまま秘書室へ戻った。
「奈緒ちゃんお帰り~」
「どうだった? いっぱい話せた?」
「遅くなってすみません。彼女とは前の会社で一緒だったのですが、久しぶりに色々と話せました。ありがとうございます」
奈緒はぺこりとお辞儀をする。充血した目を見られたくなくて二人と目が合わせられない。
その時さおりが奈緒の異変に気付く。その後すぐに恵子も気付いたようだ。
しかし二人は何も言わずにそっと目くばせをする。
そしてさおりがあえて明るい声で言った。
「ボスがさっき頂き物のマカロンを持って来てくれたの! 後でお茶の時にいただきましょうよ」
「うわぁ~マカロン大好き~! どこのマカロンだろう?」
恵子も不自然なほど喜ぶ。
「奈緒ちゃんマカロン好き?」
「好きです」
奈緒は伏し目がちに二人の前を通り過ぎると、ロッカーへ荷物を置きに行った。
奈緒がロッカールームへ姿を消すと、二人はまた目くばせをする。
そしてさおりが小声で言った。
「そっとしておいてあげよう」
「そうですね……」
それから二人は、そ知らぬふりをしたまま普段通りに午後の仕事を始めた。
コメント
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おゝ五月は 止めとこ。 どう綺麗に言うたとて、ヤッてもうてんねやろ。それで、あれこれ噂して会社におりづらくしてもうて。 そこの深山省吾、寝癖付けて会社に戻ったらあかんで~。
倉本さんの話に続きがあったけど、やっぱり本当の徹の気持ちは徹から聞きたかったよね😔 奈緒ちゃんは午後の仕事手につくのかな💧 省吾さん奈緒ちゃんをそっと包んであげてください🥺
真実を知ったら余計に感情が乱されちゃうね。勿論自分だけを愛してくれてたのは嬉しいけど徹はもう戻っては来ないから複雑。 まさか省吾さんが聞いてたなんて😢省吾さんも気になってたからね。 今後どう接していくのかなぁ。